JRグループの発足から2027年で40年を迎えます。国鉄最後の1年となった1986(昭和61)年は、分割民営化に向けた法整備や人員整理、そして民営化後を見据えた大規模なダイヤ改正の準備が、驚異的なスピードで進められました。
ギリギリだった法整備と人員整理
JRの発足から2027年で40年を迎えます。1872(明治5)年の官設鉄道開業以来、国有国営を基本としてきた鉄道政策の大転換でしたが、今から見ると非常に速いスピードで進められた「改革」でした。国鉄最後の1年となった1986(昭和61)年はどのように過ぎていったのでしょうか。
国鉄の分割民営化方針は、1982(昭和57)年に設置された臨時行政調査会で具体的に示されましたが、具体的な準備は「国鉄再建監理委員会」が1985(昭和60)年7月に提出した報告書「国鉄改革に関する意見―鉄道の未来を拓くために―」から本格化しました。
1987(昭和62)年4月の民営化が既定路線とされていたため、この時点で残り2年足らず。まずは根拠となる法令面の対応を急がねばなりません。政府は国鉄改革に関する法案の準備に取り掛かりますが、関連9法案が国会に提出されたのは1986(昭和61)年2~3月のことでした。
しかも、うち8法案は6月に衆議院が解散となったため廃案となり、同年の衆参同日選挙後の9月に開催された臨時国会に改めて提出され、11月末に可決・成立するギリギリのスケジュールでした。
並行して民営化に向けた経営面、事業面の準備が必要です。今まで一つだった国鉄が旅客6社、貨物1社に分割されるのですから、それぞれの会社が自立した経営を可能とするために、ヒト、モノ、カネの割り振りを決めなければなりません。
最も重要かつ難しい問題が、職員の処遇でした。1970年代は40万人を超えていた国鉄職員は国鉄再建の過程で、1985(昭和60)に27.7万人まで削減されていましたが、監理委員会はそのうち9.3万人を「余剰人員」としました。労使関係は国鉄でとりわけセンシティブな問題だっただけに、彼らが路頭に迷わないよう、再就職先の確保を急ぐ必要がありました。。
余剰人員対策は1986(昭和61)年3月に募集を開始した「広域異動」から始まりました。北海道や九州では職員が余る半面、東京や大阪では人員不足が生じる地域的なアンバランスの調整が目的で、3000人ほどが応募したそうです。また、割増退職金を用意した希望退職者の募集、政府機関や自治体、他鉄道事業者による採用なども行われました。
民営化を見据えたダイヤ改正も進められました。国鉄で運転局列車課長を務めた進士友貞氏が記した『国鉄最後のダイヤ改正 JRスタートへのドキュメント』(交通新聞社、2007年)によると、民営化を見据えてサービス向上・合理化を織り込んだダイヤ改正を実施する方針は、民営化方針が固まった1985年6月頃に決まったそうです。
民営化を先取りした「最後のダイヤ改正」
通常の全国的改正には2年かかるところ、すでに2年を切っていましたが、新会社が発足する直前の1987(昭和62)年3月に改正する余裕はないということで、さらに繰り上げた1986年11月の実施が決まります。
東海道新幹線のスピードアップ、地方都市圏の地域密着ダイヤなど、ダイヤ改正の素案は1985年11月に決定し、年が明けて1986年1月に要旨が報道発表されました。しかし、ダイヤづくりはそれからが本番です。
国鉄最後の「ダイヤ改正会議」は同年2月、全国各地から担当者が上毛高原近くの温泉旅館に集まり、2週間かけて行われました。素案に沿って各部門からの要望、貨物列車との関係を調整し、まとめます。今回のダイヤ改正は民営化を見据えたものなので、新会社の輸送原価を算出するため、人件費、車両、設備に関する経費を裏付ける作業が必要でした。
3月にダイヤ改正全体が取りまとめられ、4月に「国鉄最後のダイヤ改正」が中間発表されました。民営化に対する疑問、懸念に対し、地域密着ダイヤが新会社に引き継がれることを示す狙いがあったそうです。
そして5月26日から2週間にわたり、ダイヤ改正の最後の会議「時刻表確定会議」が福島県の飯坂温泉で行われました。取りまとめられた改正案は7月末に国鉄常務会に報告され、改正の約3か月前に確定しました。その後は現場で着々と準備が進められます。
ダイヤ改正に関連して欠かせないのが、車両の手配です。地域密着ダイヤとは、それまでの長編成・小頻度の列車から、電車・気動車による短編成・多頻度運転への転換です。対応する車両を用意しなければ実現できません。
国鉄は1982(昭和57)年から「シティ電車」として短編成多頻度運行を試行しており、車両の改造・転属を進めていました。1986年11月のダイヤ改正で、これを全国的に拡大するにあたり、さらなる車両が必要になりました。
もう一つの観点は、経営基盤が弱い三島会社(北海道、四国、九州)の支援です。非冷房車が走ればサービス改善への期待は失望に転じますし、古い車両の維持・修繕にはコストがかかります。また、車両を新造すれば数十億規模の出費が必要になり、新会社の経営がつまずきかねません。
そこで国鉄はしばらくの間、車両更新を必要としない体制を構築して新会社に引き継ぎました。205系、211系などの導入で余剰となった首都圏の通勤車両や、新幹線網の拡大で余剰となった特急・急行形車両を改造して地方都市圏に転属し、ローカル線向けにはキハ54形、キハ31形などの気動車を新造しました。当時の車両転配記録を見ると、11月のダイヤ改正に向けて大量の車両が動いていたことが分かります。
こうして様々な部門の地道な取り組みの積み重ねで、わずかな準備期間で分割民営化は実現しました。政治家や官僚、国鉄経営層のレベルで語られがちな国鉄改革ですが、その裏には名もなき人々の努力があったことを忘れてはなりません。