通話も通知もできない「鳴るだけ防犯ベル」なぜ設置? 列車の治安と国鉄の苦肉の策 でも10年ほどで消滅

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1960年代、列車内での強盗事件が相次いだことを受け、国鉄は客車に「車内防犯ベル」を設置しました。乗務員には直接通報できないこの装置が導入された背景と、その後の顛末を追います。

相次ぐ列車内の犯罪

 列車内で発生したトラブルを知らせる非常通報装置は、1960年代に通話機能のないブザー式通報装置の設置が一部新型車両から始まり、1990年代以降は通話式が主流となりました。近年は乗務員が対応できない場合、指令所が対応できるよう機能が拡張されています。

 そうした中、特異な取り組みをしていたのが1960年代前半の国鉄です。新型車両ではなく、夜行列車に使用される旧型客車に、通話も通知もできない「防犯ベル」を設置したのです。なぜこのような装置が必要だったのでしょうか。

 当時は「荒れた時代」だったから、というのは半分正解、半分誤りです。日米安全保障条約改定をめぐる「安保闘争」は1960(昭和35)年に頂点に達し、デモ隊と警察の衝突で死傷者が出る事態となりましたが、学生運動が過激化していくのは1960年代末の「70年安保」のこと。60年代前半は小康状態といってよい時期でした。

 警察庁の統計によると、人口10万人あたりの刑法犯認知件数(犯罪率)は、社会経済が混乱していた戦後すぐこそ2000件近くに達していました。1950年代に入って社会が安定化するとともに1500件程度まで減少し、1960年代半ばには1300件、末には1200件まで減少しています。つまり社会全体で見れば犯罪は減りつつありました。

 ところが鉄道の現場では状況が異なっていたようです。1962(昭和37)年9月に急行「第2宮島」で6人組の強盗事件、1963(昭和38)年2月には東京駅到着寸前の東海道本線1等客車内で強盗事件などが発生。さらには国家公安委員が急行「瀬戸」の1等寝台車内で現金2万5800円(現在の貨幣価値で約10万円)を盗まれる事態にもなりました。

 これらは上流層が被害にあったセンセーショナルな事例として注目されましたが、実際に被害が多く発生していたのは庶民です。特に乗車時間の長いローカル夜行列車で窃盗被害が多発しており、当時の業界誌には窃盗が続発する「恐怖の寝台列車」「危険な鈍行列車」の具体的列車名が掲載されるほどでした。

車内防犯ベルを設置した効果は?

 国鉄は被害の実態を把握し、鉄道公安官の対応を強化しますが、人手不足の公安職員に普通列車への警乗を拡大する余裕はありません。そこで、ハード面の緊急対策として行ったのが「車内防犯ベル」の設置でした。

 防犯ベルは各客車の窓際帽子掛け(フック)付近に計6か所設置し、押すと他のベルも鳴り出します。これで犯人を驚かせるとともに、周囲の乗客に注意を促すものでした。1962年に東海道、山陽、東北、高崎線の一部列車に取り付けられ、翌年には全国各線区に展開。1964(昭和39)年度末には客車約1000両の約15%に設置されていました。

 しかしその後も被害は増え続けました。1963年に国鉄が設置した「寝台盗情報センター」の調べによると、1964年末頃まで1か月あたり約40件程度だったのが、1965(昭和40)年春は80件程度、秋は100件近くに増加してしまったそうです。就寝中の窃盗ですから容易に気付けるものではありません。残念ながら防犯ベルの効果は限定的だったと言わざるを得ないでしょう。

 状況を改善したのは、鉄道公安官の地道な対応でした。それまで個々の公安官が対応していましたが、横の連携を強化しグループを組んで警戒したところ、2~3か月で40人もの窃盗犯を逮捕して被害件数が大幅に減りました。

 とはいえ、これで全て解決というわけではありません。国鉄は1966(昭和41)年から「夏の鉄道犯罪防止運動」を展開し、旅行客・帰省客の混雑に乗じた犯罪への警戒を呼び掛けました。案内文には「乗車のために並んでいる行列への割込、座席の不当占拠によるけんか、混雑に乗じた不正乗車、婦女子に対するいやがらせ、軽装と仮眠を利用した窃盗犯」とあります。根っこは現代のマナーキャンペーンと同じように見えますが、それが暴力行為につながってしまう時代だったのでしょうか。

 そんな時代のあだ花といえる車内防犯ベルでしたが、すぐに役目を終えました。『国鉄百年史』は、「社会の安定とともに使用度も減少したため、検査の手数など保守面を考慮して逐次撤去された」と記しています。時期は明記していないものの、同書は1974(昭和49)年の発行なので、1970年代初頭には撤去されたものと思われます。