日露戦争勝利の立役者となった戦艦「三笠」ほど、数奇な運命をたどった日本戦艦も少ないでしょう。日本海海戦の栄光から、様々な事故、太平洋戦争後の運命など、唯一現存する日本戦艦の生涯について紹介します。
日露戦争で有名な戦艦
日露戦争の趨勢を決した戦いはいくつかありますが、そのうちで最も有名なのは、1905(明治38)年5月27日から5月28日にかけて行われた日本海海戦です。
この海戦は、歴史上稀有である一方的勝利を収めた海戦として知られ、連合艦隊司令長官の東郷平八郎が座乗していた戦艦「三笠」から行った、いわゆる「東郷ターン」は伝説的な逸話となっていますが、同艦は日露戦争以後どのような経緯で記念艦となったのでしょうか。
まず戦艦「三笠」は、1902(明治35)年に就役した日本海軍の戦艦です。
常備排水量1万5200トンは建造時、世界最大でした。当時のスエズ運河を通行できない巨大戦艦でしたが、これは「三笠に匹敵する戦艦を仮想敵国が建造した場合、スエズ運河を通行できなくなり、喜望峰経由となることから、東洋への回航に時間と費用を強いる。しかも、喜望峰経由ではイギリス以外は石炭貯蔵庫を持たないため補給が困難となる」という戦略的理由で選択された艦型でした。後の大和型戦艦が「パナマ運河を通れない巨大戦艦とすることで、アメリカ海軍の対抗を難しくする」というのと同じ考え方と言えます。
速力18ノット(33.3km/h)も、多くのロシア戦艦の16ノット(29.6km/h)を上回っていました。
艦名は百人一首にも登場する奈良の春日山の別名「三笠山」にちなんだものでした。「三笠」建造から間もない1905(明治38)年頃より艦名付与基準が定まり、戦艦は「大和」など旧国名となったわけですが、この時期は艦によりまちまちでした。
日露戦争で日本が保有していた6隻の戦艦は、30.5cm砲4門、18ノットという性能は同じでしたが、装甲や砲塔構造が日進月歩している時期であり、初期の戦艦「富士」は舷側装甲457mmで、後の戦艦「大和」よりも分厚いものでしたが、戦艦「敷島」では装甲厚を228mmとしても防御力で「富士」を上回るハーヴェイ浸炭甲鉄を採用していました。敷島型4番艦の「三笠」はさらに進化したクルップ式浸炭甲鉄となっていました。
また、舷側装甲の上部に152mmの装甲が設けられ、副砲に対する耐久力も向上していました。完成当時、世界最大最強の戦艦と言える性能だったのです。変わったところでは「初めて冷凍庫を搭載した」日本戦艦でもありました。
なお、「三笠」以前の日本戦艦は純白に塗装されていましたが、船体が汚れやすいとして「三笠」から黒塗装となり、上部構造物だけが白となりました。
横須賀で保存されている記念艦「三笠」は明るい灰色ですが、日露戦争後は黒でした。保存艦となり、現役を退いた1926(大正15)年以降、現在よく知られている姿となったわけです。
日露戦争時は黄海海戦、日本海海戦の連合艦隊旗艦として大活躍しています。しかし、それで運を使い果たしたのか、運がいいことで知られる東郷平八郎司令長官が下艦した翌日に、後部火薬庫の爆発により大浸水を起こして着底してしまいます。
理由は諸説ありますが、当時は火薬の自然変質による爆発事故が起きており、戦艦「河内」なども同様の理由で爆沈しています。
1908(明治41)年に現役復帰しますが、今度は1912(大正元)年に水兵の放火で前部火薬庫に火災が発生し、あわや爆沈というところで注水しています。
1921(大正10)年、旧式化した「三笠」は戦艦から一等海防艦に変更されます。その直後、ウラジオストク沖で座礁し、大損傷しました。応急修理したのですが、1923(大正12)年のワシントン海軍軍縮条約により廃艦が決まります。その直後、関東大震災で岸壁に衝突し、大浸水を起こして再び着底しました。
このまま解体される予定でしたが、日露戦争における日本海軍の象徴と言える艦であったことから保存運動がなされ、現役復帰を不可能とする条件で保存艦とすることが決定されます。この時に船体の外周部に砂が投入され、下甲板にもコンクリートが流し込まれたため、「三笠」は艦ではなくなり、日本海軍の歴史を象徴する構造物となりました。
なお、廃艦時に武装は撤去されていたので、砲塔などは木製のダミーでした。
敗戦後は取り壊しの危機に! しかし!!
太平洋戦争の敗戦後、「三笠」はロシアの継承国である戦勝国ソ連に敵視され、解体されそうになりますが、アメリカの反対でそのまま保存されることになります。しかし当時は極度に治安が悪化しており、敗戦から1年も経たないうちに、船体で切断可能な金属類はガスバーナーで切断され、木甲板も持ち去られました。廃艦前のものとして保存されていた主砲塔すら失われるほどの荒廃でした。なお、「三笠」の主砲先端は福岡県の東郷神社にて保存されています。
東郷平八郎を敬愛していたアメリカ海軍ニミッツ元帥は、「三笠」の現状に激怒し、海兵隊に「三笠」を守らせようとしたほどでした。しかし、アメリカは横須賀港を接収した際に、「三笠」の上部構造物をダンスホールとし、主砲塔のあった場所に水族館を設置したとされ、「キャバレー・トーゴー」と呼ばれました。
イギリス人のルービンが「ジャパンタイムズ」でこの惨状を投稿し、ニミッツ元帥も著書の売り上げを寄付するなどして、「三笠」の復元運動が始まります。募金運動も行われ、1億円近い寄付が集まりました。
しかし、日本国内の世論には「完全に撤去すべきだ」という意見も強い時代でした。「三笠」を鉄くずとして売り払い、その代わりに記念館を作ればよい、とまで言われるほどでした。
海上自衛隊ですら「動けない艦など引き取れない」「維持予算がない」と言うほど、当時の日本は貧しい状況でした。流れを変えたのはアメリカでした。戦車揚陸艦を日本に寄付することで、復元予算を上積みしたのです。1958(昭和33)年にはイギリス製のチリ戦艦「アルミランテ・ラトーレ」が日本で解体され、その部品がチリ政府から寄贈されたことで復元が進むという幸運もありました。
こうした経緯もあり、1961(昭和36)年に修復が完了しました。主砲塔などは鉄製の複製品となっています。なお、アメリカは「三笠」から撤去されたテーブルなども返還し、復元に協力しました。
現在では記念艦「三笠」として、イギリスの「ヴィクトリー」、アメリカの「コンスティチューション」と並ぶ世界三大記念艦の一つとされています。横須賀駅前には「三笠」と同様に爆沈した日本戦艦「陸奥」の主砲も保存されています。貴重な日本戦艦の姿をあわせて確認するのも意義のあることではないでしょうか。