大相撲のコメント部屋

※コメント投稿の際に名前欄にメールアドレスを記載しないでください。
※コメントを投稿する際は「コメントのルール」を一読ください。
※誹謗中傷、なりすまし、野球に直接関係ないコメントは「NGコメント」、以上の行為を繰り返すと「NGユーザー」の対象となります。

※2019年7月1日からコメントの確認・サイト掲載時間は9時~18時の間のみです。またコメント反映までは1時間程度を目安としてください。
※フィーチャーフォン(ガラケー)の投稿機能に関しましては、動作を保証するものではありませんのでご了承ください。

みんなで応援しよう!

この試合・選手についてのコメントを投稿してください

※ コメントは承認後に表示されます
※ 誤謗中傷や不適切な内容は掲載されません

応援コメント一覧 全2,564件

  1. #135137 | KON |
    番付発表 横綱は、在位12場所目となる照ノ富士(31=伊勢ケ浜)が今場所も一人横綱として東に就いた。 4場所連続休場明けの先場所は、横綱の貫禄を示し14勝1敗で8度目の優勝を果たした。なお一人横綱は番付上で11場所連続となった。また、今年初場所から、番付上で表記されていた照ノ富士の「横綱大関」も、大関が2人になったことで解消された。今年初場所で、番付上では実に125年ぶりの1横綱1大関(前回は1898年春場所の横綱小錦、大関鳳凰)だった状況も、先場所までの3場所連続で止まった。 大関陣は、先場所まで一人大関を3場所連続で務めていた貴景勝(26=常盤山)が4場所ぶりに東に就いた。 西は霧馬山改め師匠のしこ名を継いだ霧島(27=陸奥)が就いた。新大関誕生は、22年春場所の御嶽海以来で、陸奥部屋からは史上初めて。モンゴル出身の新大関は、15年名古屋場所の照ノ富士以来6人目。外国出身では18年名古屋場所の栃ノ心以来、12人目の新大関誕生となった。 関脇3人は、いずれも大関取りの場所となる。東の豊昇龍(24=立浪)は6場所連続の在位(三役は9場所連続)、西の大栄翔(29=追手風)は2場所連続の在位(三役は3場所連続)、西の序列2番目の若元春(28=荒汐)は2場所連続の在位(三役は4場所連続)となっている。 この3人はいずれも、先場所と先々場所で三役として2場所通算20勝以上している。 これは 1972年秋場所の貴ノ花、魁傑、輪島以来、史上3回目となるハイレベルの関脇3人衆となった。 なお、同じように前2場所通算21勝以上の関脇3人が名を連ねたのは初めてとなった。 小結は4場所連続の琴ノ若(25=佐渡ケ嶽)が今場所も東に在位し、西は阿炎(29=錣山)が昨年秋場所以来、5場所ぶりの復帰となりました。
  2. #135072 | 匿名 |
    八角理事長が今日60歳の還暦を迎えました。 秋場所前の9月2日に還暦土俵入りを行います。 露払いは北勝富士、太刀持ちは君ヶ浜親方(元隠岐の海)の予定です。 残念ながら二所ノ関も宮城野も外されてしまいましたね。
  3. #135070 | オバァ |
    まぁ難しい事はよく分からんが横野さんに言いたいわ。いくら男女平等だからとはいえ男と女の違いがあり、そんな所までズケズケ入り取材するのは大反対だね!いくら恥ずかしいなんて言ってる力士はいない、なんて言っても常識の問題だとおばちゃんズ!は思うよ。そんなものOKしたら常識外の事がみんなOKになる。 横野さんにがっかりだわ。
  4. #135068 | KON |
    支度部屋での取材を、女性記者にも開放しようという動きが進行中だとか。 コロナ感染拡大後、ここでの取材は禁止されました。が、先の夏場所では大関・横綱に限って解禁され、この名古屋場所からは全面的に元に戻す流れが決まりつつある」 と、ここまではまあ ウエルカムな動きである。 一方で、 「それと同時に、これまで禁じられてきた女性記者の入室もOKにしようという話も進んでいまして……」 これに一部の力士から反対論が出ているという。 力士は回しをつける際、素っ裸になる。付け人の手を借りて下半身をバスタオルで覆う力士もいますが、面倒くさいからと裸のままで行う力士もいます」 取組後も、 「力士は奥にある風呂に入りますが、そこから上がるとタオル一枚で座敷に座り、パンツをはきます」 そうした際に、当然“見えて”しまうこともしばしばあるらしい。 「私も何度もご開陳にあったことがあります」 とは相撲取材歴の長いカメラマン。 「特に下っ端の力士は自分の取組が終わると上位力士の世話をしないといけない。忙しくてタオルを巻いて着替える暇などありません」 たとえるなら銭湯の脱衣所と同じだという。 今回の動きは、フジテレビの相撲レポーター、横野レイコさんが発端です」 と発言してるのは某スポーツ紙のデスク。 「『今は男女平等の時代だから』 と協会幹部に進言したとか。しかし、若手力士の中にはこの話を聞き“恥ずかしい”という声も上がっているそうです。協会の判断が注視されていますね」 これに対して当の横野さんは 『記者クラブの幹事社には “昭和の時代とは明らかに変わってきているので、取材の場において男女差別をしたら協会も批判されるし、クラブとしてそれでよいのでしょうか?”とは言いましたけどね。全裸の姿を見られて恥ずかしいって言っている力士がいる? 私の知る限りそんな力士はいませんよ。ジェンダーレスの時代なのだから、“着替えの場”と言うのなら男性記者も含めて支度部屋取材がOKなのかどうか考えなければいけないのでは?』とのこと。 ・・・今から60年近く前、蔵前国技館に観戦に行き、子供だった私がチョロチョロと支度部屋に入り込んだ際には、確かに太ったお相撲さんたちが素っ裸になって着替えてました。まあ私はすぐに筋肉隆々の明武谷関にヒョイと持ち上げられて『ここへ入ってきちゃ駄目だよ』と出されてしまいましたが……。 印象では たしかに銭湯の脱衣所でしたね。 横野さんは男女平等をはき違えてますね。 女性アスリートの着替えエリアに男性記者が入らないのと一緒ですね。
  5. #135017 | KON |
    既述した今週金曜日のNHK①アナザーストーリー「力道山」 どうしても大成功したプロレス時代の話題が中心になると思うので 力道山の相撲時代に触れておくと 力士時代の力道山 15歳で二所ノ関部屋に入門し、1940年5月場所初土俵、1946昭和21年11月場所に入幕し、入幕2場所目の1947年6月場所に前頭8枚目で9勝1敗の星をあげ、横綱羽黒山、大関前田山、同東富士ら3人と相星となりました。 この場所から新たに設けられた優勝決定戦に出場し、優勝した羽黒山に敗れたが、優勝旗手となる(東西制の名残りで最後の優勝旗手)。 1948昭和23年5月場所では 横綱照國とこの場所優勝した大関東冨士を破り、さらに横綱前田山には取り直しの末、前田山の棄権によって不戦勝となって殊勲賞を受賞。 幕内出場10場所のうち負け越しは1場所だけ、幕内勝率5割8分1厘は戦後の関脇どまりの力士の中では最高である。同世代の鏡里喜代治、栃錦清隆、吉葉山潤之輔とも互角に取っており、力士を続けていれば大関も期待できる逸材でした。 突如、髷を落として引退しプロレスへ走った理由が、「朝鮮人という民族の壁があり、大関に上がれなかったから……」と本人の弁が伝わってますが いますが、関脇で8勝7敗だった場所の後に引退しているので、信憑性は低い。 現役力士を引退したあとの 協会に縛られる親方人生を鑑みて、アメリカのプロレスを日本に導入して一旗揚げることを志したのだと推測されます。 「二所の荒稽古」の伝統は 玉錦から力道山へ、そして初代若乃花へと伝承されていったもので、プリンス貴ノ花が興した藤島部屋全盛時代及び二子山部屋との合併で巨大化した新たな二子山部屋の時代まで続きました。 現在でも時折NHKのアナウンサーが「二所の荒稽古)という言葉を発しますが、藤島・二子山部屋全盛時代と今を比べても荒さのレベルが全く違っていますね。
  6. #134999 | KON |
    力士・元力士のテレビ出演情報 力道山 来週の金曜日の夜 「甦る力道山」 6月23日(金曜日)22時~ NHK① アナザーストーリーズ選 「戦後最大のヒーロー 力道山 知られざる真実」 戦後日本の人々に勇気と力を与えたプロレスラー力道山。 テレビ時代の寵児、柔道日本一の男との決戦、胸に秘めたもう一つの祖国…。知られざる実像に国内外の新証言で迫る。 1954年2月19日、日本初の本格的なプロレスの国際試合が行われた。アメリカから来た2m近い大男に挑む力道山の姿が街頭テレビに映し出され人々は熱狂。テレビというニューメディアとタッグを組み一躍時代の寵(ちょう)児となった。力士からプロレスへの転向、柔道日本一の木村政彦との決戦と意外な結末、胸に秘めたもう一つの祖国…。時代と格闘した男・力道山を巡る新たな証言を日本の内外に求めその知られざる実像に迫る
  7. #134972 | 匿名 |
    やっぱり次の大関→横綱は豊昇龍かな。 土俵態度は好きではないが、闘志とかハングリー精神とかが伝わってくるしね。 調子に乗らない事だけを願うばかりだ。
  8. #134946 | オバァ |
    やっぱり場所終わるとコメントも少なくなるね。 一時ここも読めなくて閉鎖と思ったよ。 楽しみがなくなったと思いビックリしたが今日は読める。ほっ! 北の富士さん情報もないからずーと心配してる!
  9. #134929 | KON |
    温故知新・大相撲ダイアリー6月12日 1914大正3年の6月12日 第19代横綱の常陸山谷右工門が5月場所をもって現役引退、年寄・出羽ノ海を襲名し、引退直後の6月12日から四日間にわたって 旧・両国国技館で引退相撲を行ないました。 「引退相撲」自体、角界には前例がなく、この常陸山引退相撲が初めてでした。 あまりの人気の高さに引退相撲で最後の勇姿を見たいという観覧希望のファンの数が尋常ではなく、今よりもずっと大きかった “大鉄傘”旧両國國技館(収容人数13000人)でも 1度では入りきらなかった為に4日間の興行としたのだそうです。 現役時代の取り口は、相手の得意とするぶつかり・突き・押し・絞りあげ・おっつけなどの攻めをすべて受けてから組み止めて力勝ちする「横綱相撲」で、常陸山以降の横綱に対して “模範的な取り口”として今なお要求され続ける風潮が残り、相撲評論家の能見正比古は「その後、何人の横綱がこの(常陸山の)横綱相撲を要求されて犠牲となったことか」と嘆く文章をしばしば寄稿していた。 「歴代横綱では最後の幕内勝率9割超え」という安定感もさることながら、引退後の角界での活躍により大相撲を「国技」に押し上げ、その品格・力量から「角聖」とまで呼ばれました。 常陸山の人気の高さは今となっては想像できないほどで、後の双葉山・栃若・プリンス貴ノ花・千代の富士・若貴兄弟らも ある意味では足元に及ばなかったようで、引退相撲から八年後、関節炎からの敗血症により48歳の若さで急逝した際には、史上初の協会葬として行なわれ、その葬列が、東北線や東海道線など北から東から西からの電車に乗って駆けつけた相撲ファンが溢れ、上野駅から両国橋まで途切れることなく続いたという。 引退相撲における常陸山の土俵入りでは、盟友の二代梅ヶ谷藤太郎が露払いを務め、常陸山のあとの角界を背負っていくだろう強豪太刀山峰右衛門が太刀持ちを務めた。 愛弟子である栃木山・大錦・常ノ花の三横綱は、いずれも師匠の影響だとして土俵入りの際に太刀持ちを左に立たせていたが、常陸山の引退相撲における横綱土俵入りの写真によると太刀持ちを勤めた太刀山峯右エ門は(向かって)右に いました。 現在においても太刀持ちは横綱の向かって左にて蹲踞の姿勢をしていますね。
  10. #134914 | KON |
    温故知新・大相撲ダイアリー6月11日 1791寛政3年、6月11日 江戸城吹上御庭に於いて、第11代将軍徳川家斉の上覧相撲が催され、結び三番の殿(しんがり)に 大関の谷風梶之助と小野川喜三郎が土俵に上がりました。 この一番に勝った谷風が将軍家から弓を賜り、この弓を手に 敬い捧げて四方に弓を振り回し舞って見せたのが、現代の弓取り式の始まりとされてます。 当時の相撲界は、谷風梶之助と小野川喜三郎が覇を競い合い、強豪力士の雷電為右衛門も登場し活況を呈していました。そうした折りに、幕府の最高権力者である将軍が相撲を観戦し、成功を収めたことは、相撲界にとって大きな出来事でした。将軍が観戦するに足る格式を相撲が持っていることが公に認められたからです。この上覧相撲の評判により、相撲の人気はいっそう高まりました。ましてや京都相撲や大坂相撲に比べて人気が劣っていた江戸の相撲が、この家斉上覧を機に一気に人気が増して連日満員御礼となり、その評判を聞きつけた京都相撲や大坂相撲の力士たちも一人また一人と江戸の相撲に参入するようになってきたそうです。 将軍の前で相撲を取る「上覧相撲」や天皇の御前で相撲を取る「天覧相撲」は、そもそも本場所とは別に、将軍や天皇の指定した場所へ力士一行が赴いて御前で相撲大会を披露するものでした。 実力者十数名を東西に分けて「幕内」として番付に記し、出番を待つ力士たちを横断幕で区切り、将軍を拝顔できるよう横断幕の内側で待機することを許された。これが「幕内」の語源のようです。 信長上覧相撲から、それまでの人垣ではなく円形の「土俵」なるものが登場してから二百年余りで少しずつ様々なルールが固まってきた大相撲。 初めて昭和天皇が蔵前国技館へ行幸されての天覧相撲となったのは大相撲観戦をされたのは1955年昭和30年5月場所十日目でした。 最初は、正面の座敷席に特別貴賓席を設けて御観戦戴いたそうですが、後に、警備上の関係で現在のような二階正面の最前列に貴賓席を用意しています。

応援コメントを投稿

が付いている欄は必須項目です

※ 不適切な内容は掲載されません
※ 日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)