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名古屋場所七日目の夜に 大関の 負けぬ日はない 尾張場所 と詠みましたが、 その途端、 八日目から5日間連続で横綱・大関は白星を続けています。 御嶽海が、負け越し目前でコロナクラスターを理由に休場してしまったから? 正代が息を吹き返したから? 最終盤に入り、今日の結び前は、大関同士の対戦。 横綱照ノ富士は若隆景と。 テレビ解説は北の富士さん 進行は、北の富士さんと ウマの合う佐藤アナウンサー
あー今日はコラムあったね。 疲れてる様だけど頑張ってほしいわ。 場所がある時は勿論見て、野球も見てがパターンなんだが、おかしくなってる。 年寄りはこれだけ又コロナ増えてくるとこわいわ。 無事に場所が終わってほしいし、皆さんも気を付けてな。 名古屋場所観戦したなら話聞かせてほしい。
名古屋場所といえば、 北の富士さんも昨日のラジオ解説で おっしゃってましたが 力士たちは対戦相手以外に酷暑とも戦わなければなりません。 過去には多くの平幕優勝が出ていますが、体調管理の難しさもその大きな要因の1つ。 そんな暑い名古屋場所に、実は例外がありました。 それは平成5年。 昭和33年に名古屋場所が本場所に昇格し、今年で64回目を迎えるが(令和2年は新型コロナウイルス感染拡大の影響で東京開催)、平成5年は7月4日の初日から18日の千秋楽まで、名古屋の最高気温が30度に達した日は1日もなく、同場所の代名詞である猛暑とは最も無縁の奇跡的な夏でした。 場所前の6月にはハワイ、アメリカ巡業が行なわれたが、力士たちはそんな疲れを全く感じさせず、十両以上の休場者はゼロ。 熱戦が多かったのも例年に比べ、過ごしやすい気候だったからでしょう。 涼しい名古屋場所でひと際、闘志を燃やしていた力士がいた。 それが横綱3場所目の曙太郎でした。 前場所は初日から12戦勝ちっぱなしで横綱初優勝も目前としていた曙だったが、十三日目は関脇若ノ花(のちの若乃花)に叩き込みで屈し、1敗で大関貴ノ花(のちの貴乃花)と並ぶと千秋楽の相星決戦では寄り倒しに敗れ、掴みかけた天皇賜盃は20歳の大関のもとへ。優勝して故郷・ハワイに凱旋という目論見は見事に“若貴”によって打ち砕かれたのだった。 「自分は横綱。勝たなければならない。横綱になって3場所目。やはり優勝しないと本当の横綱と言えないと思う」 賜盃への思いを一層、強くして臨んだ冷夏の名古屋場所は、若ノ花が大関取りに挑み、貴ノ花も史上最年少横綱にリーチを懸け、“若貴ダブル昇進”というこれ以上ないホットな話題で持ち切りだった。 国民的人気を誇った元大関初代貴ノ花の息子として生まれた兄弟は、やがて父親のもとに弟子入りし、「親子」は「師弟」となった。元人気大関の息子として、幼少時から注目を浴びてきた2人は、今や伝説となった猛稽古によって、国民の期待どおりに順調な出世を遂げ、不動の人気も確立していった。 “サラブレッド”の兄弟たちに立ちはだかったのが、ハワイからやって来た身長2メートルを超す大男だった。彼らは昭和63年春場所が初土俵の同期生。 入門当初からしのぎを削っていったが、曙が一足先に角界の頂点に上り詰め、外国出身初の横綱になった。 判官贔屓な日本人の国民性もあってか、ライバル競争はおのずと“ベビーフェイスvsヒール”という構図が出来上がり、熱を帯びていく。平成初期に沸き起こった空前の相撲ブームは“若貴”だけでなく、敵役を宿命づけられた男の存在も抜きには語れない。 曙と若貴兄弟、三つ巴の優勝決定戦へ 横綱初優勝に燃える曙は前場所同様、名古屋場所もリーチの長さを生かしたもろ手突きからのパワー全開の突き押しで、出だしから連勝街道をばく進。綱取りに挑む貴ノ花は三日目、琴錦に不覚を取ると、初日から9連勝としていた “お兄ちゃん” 若ノ花もまた、琴錦の突き落としに屈して十日目に初黒星を喫した。 貴ノ花は十一日目にも栃乃和歌に引き落とされて痛恨の2敗目。 全勝の曙とは2差がつき、当時の横綱昇進は連覇が絶対条件というムードがあり、極めて厳しい状況となった。 独走態勢の一人横綱に「待った」をかけたのが、“若貴”と同じ二子山部屋の兄弟子だった。 曙は十二日目、安芸ノ島の引き落としに土をつけられたが、翌日は若ノ花を押し倒すと十四日目もハワイの先輩、大関小錦を上手投げに降して1敗を守った。 千秋楽、若ノ花は1分を超す長い相撲の末、小錦を寄り切って13勝目。優勝決定戦の権利を手中にした。結びで曙が勝てば優勝、貴ノ花が勝てば13勝2敗で並ぶ同期生3人による優勝決定巴戦。注目の一番は貴ノ花が曙の左右ののど輪攻めを辛抱強く下から撥ね上げると、相手の引きにも乗じて押し出し。賜盃のゆくえは優勝決定戦に持ち込まれ、ファン待望の“兄弟対決”がついに実現かと、会場の愛知県体育館は異様な空気に包まれた。 瞬間最高視聴率66.7%、 巴戦の結末は… 抽選の結果、貴ノ花が控えに回り、巴戦最初の一番は曙対若ノ花。食いつかれれば不利とばかりに、横綱は強烈な突き放しで押し倒すと、続く貴ノ花戦も左上手を引きつけて一気に走って寄り倒し。 「一発目(本割)で決めたかったけど、悪い相撲で負けてしまった。気持ちを入れ替え、横綱のプライドを持って思い切っていった」 平均視聴率37.6%、瞬間最高視聴率66.7%と国民が注視する中、曙は兄弟もろとも土俵下まで吹っ飛ばし、ファンの夢を完膚なきまでに打ち砕く圧倒的な強さで4度目の優勝を果たしたのだった。 貴ノ花は夏場所で14勝の優勝、名古屋場所で13勝の優勝同点というハイレベルの成績を残しながら、“2場所連続優勝でないから” という理由で、最年少横綱は見送られ、若ノ花は直近3場所37勝という文句なしの成績で場所後、大関に推挙された。 第一人者としての責任、横綱初優勝、ライバルへの意地、すべての思いを結実させた曙は、この場所から3連覇を達成。 24歳のこの年が全盛期と言えたが、“ヒール”が強かったからこそ、“若貴”もまた輝きを増したのだった。 時代は下り、今年の名古屋場所も例年に比べれば、そこまでの酷暑ではなく連日、熱戦が繰り広げられている。 夏場所に続き、混戦模様の優勝争いは、横綱照ノ富士が抜け出しそうな気配だが、初優勝を目指す逸ノ城も不気味な存在であり、終盤戦に突入してもまだまだ予断を許さない。 (「大相撲PRESS」荒井太郎 = 文) ・・・ 番組視聴率は「千代の富士vs北の湖の優勝決定戦」や「貴ノ花vs北の湖の優勝決定戦」には 大きく及ばなかったものの、 瞬間最高視聴率は、それまで歴代1位だった「千代の富士vs北の湖」を超えて大相撲史上1位の視聴率となりました。 私も勤務中でしたが、友人たちから仕事場に電話が何本も入り、『大変なことになってるから相撲中継を見ろよ』とのことで慌てて休憩室に走りこんでテレビを見ました。 日本中でそういうやり取りがあったんでしょう。30%台だった視聴率が2倍近くに跳ね上がったのですから。 まあ、大相撲史上初の兄弟対決を夢見たファンの思いは、“空気を読まないヒール?” 曙 により叶いませんでしたが、後に、兄弟対決は実現しましたね。
正代が、勝ち越しましたねぇ。 踏み込みが良かったし、前に前に出ましたね。 大関11場所で4度目のカド番を脱出、7度目の勝ち越し。 来場所からは、場所前にしっかり稽古して汗をかいて、体を温めてから本場所初日に臨んでもらいたいものです。
「コロナによる途中休場の場合に番付はどうする?」 「カド番大関が負け越し寸前だった時に途中休場となったらどうする?」 などの“もしも・・・”を何も想定していなかった? 協会の役員の職務分掌では、花籠理事(元太寿山)が危機管理担当部長。それを補佐するのが鏡山(元多賀竜)ですが!お二人とも どうも予想通りのボンクラさんのようで“危機管理”とは名ばかり。何も機能してなかったみたいですね。 そんなお年寄りに、できない職務と年寄株を与えてないで、年寄株を持てずに困ってる古参力士や鶴竜親方ら若手親方に年寄株とコロナ対策などの危機管理の職務を与えて若い目線・生きた視線で活躍してほしい。 と、協会に意見書をメール送付しました。
角界クラスター コロナによる途中休場が相次ぎ、両者休場による両者不戦敗が続出 田子ノ浦部屋・出羽海部屋・放駒部屋・武蔵川部屋に続いて佐渡ヶ嶽に玉ノ井も。 前日に部屋関係者でコロナ陽性が判明した佐渡ケ嶽部屋と玉ノ井部屋、新たに判明した浅香山部屋の力士は既に十二日目の割が組まれていたため全員不戦敗となりました。 このうち、休場力士同士で組まれていた対戦が2番。 三段目の小原(浅香山)vs 琴ノ藤(佐渡ケ嶽)と、 幕下の琴大樹(佐渡ケ嶽)vs 魁郷(浅香山)では「両者不戦敗」の扱いとなりました。 残っている資料によると、過去にもわずかながら両者不戦敗はありました。 1978昭和53年夏場所千秋楽、既に休場届を出していた序二段・川村(時津風)の対戦相手である富士ノ浦(九重)が取組の時間に遅刻して両者不戦敗に。 また、1995平成7年春場所二日目には 序ノ口・沖ノ石(峰崎)の休場と 同日に矢風(尾車)が廃業した という事例もありました。 「コロナによる途中休場の場合に番付はどうする?」 「カド番大関が負け越し寸前だった時に途中休場となったらどうする?」 などの“もしも・・・”を何も想定していなかった? 協会の役員の職務分掌では、花籠理事(元太寿山)が危機管理担当部長。それを補佐するのが鏡山(元多賀竜)ですが!お二人とも どうも予想通りのボンクラさんのようで“危機管理”とは名ばかり。何も機能してなかったみたいですね。
夏場になると二八で夏は暇なので、今は又コロナも加わり余計に、、、 それで浴衣祭りなど、各お店で催すのですが、対抗して浴衣ではなく、ムームー祭り催すお店もあるのですが、北の富士さん流にアッパッパー!祭りでもしようかな? 冗談ですが、アッパッパー って何なんて言われそうですね。 名古屋行くつもりでしたが、コロナ増えているので、、、考え中です。
昨日の解説での北の富士さんの“名古屋は暑かった!お客さんも男はステテコ、ご婦人はアッパッパ……” 今どきアッパッパはないでしょ? ムームー? 過去帳を開くと たしかに、北の富士さんは暑い名古屋では、成績が芳しくありませんでした。 初めての名古屋場所は 1958昭和33年、本名の“竹澤”で臨んだ序二段で3勝5敗、 次の年、“竹見山”という四股名をもらって三段目で2勝6敗。 (この頃までの幕下以下は8番相撲) さらにその翌年も2勝5敗。 なかなか番付が上がらす、師匠九重(元横綱千代の山)から “北の富士”の四股名を頂きました。 翌1961昭和36年に幕下で6勝1敗と名古屋で初の勝ち越し。 しかし、その翌年には3勝4敗。 十両に上がった昭和38年も4勝11敗。 他の場所では勝ち越しが多くじわじわ番付を上げているのに名古屋で足踏みという番付的には逆戻り、“暑さ負け”してましたね。 しかし、その昭和38年の冬、九州場所、十両で15戦全勝優勝。新入幕を果たすと13勝して一気に番付を上げ、昭和39年の名古屋では新関脇で9勝。 そして暑い暑い金山体育館から空調のある愛知県体育館へ移った昭和40年に8番勝ち、さらに翌年も10勝して大関昇進となりました。 しかし大関で迎えた初の名古屋では負け越し。前場所も負け越していたので2場所連続負け越し・・・カド番となってしまいました。 続く昭和43年・44年と10勝・9勝。 昭和45年は横綱として迎えた名古屋場所で 13勝して名古屋場所での初優勝。 ただ、その翌年は8勝7敗、さらに翌年(昭和47年)は、例の不眠症による途中休場の次の場所で張り切り過ぎたか場所前の稽古で左手中指を脱臼してしまい全休。 その翌年の名古屋では絶好調。大受に押し出された1敗のみで、若き横綱輪島や大関貴ノ花、まだ平幕だった“怪童”北の湖らを全て左四つからの一気の寄り切りで下し14勝しましたが、琴櫻との優勝決定戦に敗れ優勝を逃しました。 そして最終年となった昭和49年、初場所後の部屋での稽古で右膝を傷め、春場所と夏場所を全休し、背水の陣で臨んだ名古屋でしたが、初日に旭國、二日目に大受に連敗。場所前に後輩横綱の琴櫻が引退してしまったこともあり、“(御本人曰く)じゃ、俺も早く辞めなきゃ”と? ついに引退を発表。 戦前・戦中生まれの横綱は誰もいなくなり、横綱は昭和23年生まれの若き横綱輪島ひとりとなってしまいました。 結局、北の富士さんは 大関昇進前までの名古屋場所通算成績は47勝50敗と負け越し。 場所中の宿舎(お寺)も冷房は当然なかったでしょうし、涼を求めて夜の街に繰り出したり、さぞかし、勝負には集中できなかったことでしょう。
昨日のラジオ解説での北の富士さん 関脇若隆景は平幕碧山に はたき込まれ6勝5敗となった一番で、NHKラジオ解説を務めた北の富士勝昭さんは、 「今場所後の大関昇進が厳しくなったとみられる若隆景」と実況の佐藤洋之アナウンサーに話を振られると 『10勝5敗でも大関になった人いるんだからね』と激励?自虐?のコメント。 すると佐藤アナは 「北の富士さんは、当時、そうそうたる面々の中で大関昇進を果たしたということもありました」と必死にフォローしていました。 ・・・北の富士さんの時は、大関北葉山が引退してしまい、大鵬・柏戸に加えて佐田の山や栃ノ海まで横綱に昇進したのに対して、大関が豊山一人。 4横綱1大関というバランスの悪い番付となってしまったことが要因です。 しかし、北の富士さんの前には初代若乃花がやはり10勝(3場所28勝)で、さらにプリンス貴ノ花(3場所33勝)、稀勢の里(3場所32勝)、貴景勝(3場所34勝)で、直近場所10勝ながら大関昇進を果たしてます。 3場所28勝で大関昇進した初代若乃花と北の富士さん。一部マスコミの懸念を見返すように、お二人とも見事に横綱へ昇進を果たし、ともに(当時歴代2位タイとなる)優勝10回の見事な横綱になりました。 ご存知 “栃若時代” “北玉時代” として、角界を背負う活躍をしましたね。
『 大相撲のコメント部屋 へのコメント 4,727件 』
名古屋場所七日目の夜に
大関の 負けぬ日はない 尾張場所
と詠みましたが、
その途端、
八日目から5日間連続で横綱・大関は白星を続けています。
御嶽海が、負け越し目前でコロナクラスターを理由に休場してしまったから?
正代が息を吹き返したから?
最終盤に入り、今日の結び前は、大関同士の対戦。
横綱照ノ富士は若隆景と。
テレビ解説は北の富士さん
進行は、北の富士さんと ウマの合う佐藤アナウンサー
あー今日はコラムあったね。
疲れてる様だけど頑張ってほしいわ。
場所がある時は勿論見て、野球も見てがパターンなんだが、おかしくなってる。
年寄りはこれだけ又コロナ増えてくるとこわいわ。
無事に場所が終わってほしいし、皆さんも気を付けてな。
名古屋場所観戦したなら話聞かせてほしい。
名古屋場所といえば、
北の富士さんも昨日のラジオ解説で おっしゃってましたが
力士たちは対戦相手以外に酷暑とも戦わなければなりません。
過去には多くの平幕優勝が出ていますが、体調管理の難しさもその大きな要因の1つ。
そんな暑い名古屋場所に、実は例外がありました。
それは平成5年。
昭和33年に名古屋場所が本場所に昇格し、今年で64回目を迎えるが(令和2年は新型コロナウイルス感染拡大の影響で東京開催)、平成5年は7月4日の初日から18日の千秋楽まで、名古屋の最高気温が30度に達した日は1日もなく、同場所の代名詞である猛暑とは最も無縁の奇跡的な夏でした。
場所前の6月にはハワイ、アメリカ巡業が行なわれたが、力士たちはそんな疲れを全く感じさせず、十両以上の休場者はゼロ。
熱戦が多かったのも例年に比べ、過ごしやすい気候だったからでしょう。
涼しい名古屋場所でひと際、闘志を燃やしていた力士がいた。
それが横綱3場所目の曙太郎でした。
前場所は初日から12戦勝ちっぱなしで横綱初優勝も目前としていた曙だったが、十三日目は関脇若ノ花(のちの若乃花)に叩き込みで屈し、1敗で大関貴ノ花(のちの貴乃花)と並ぶと千秋楽の相星決戦では寄り倒しに敗れ、掴みかけた天皇賜盃は20歳の大関のもとへ。優勝して故郷・ハワイに凱旋という目論見は見事に“若貴”によって打ち砕かれたのだった。
「自分は横綱。勝たなければならない。横綱になって3場所目。やはり優勝しないと本当の横綱と言えないと思う」
賜盃への思いを一層、強くして臨んだ冷夏の名古屋場所は、若ノ花が大関取りに挑み、貴ノ花も史上最年少横綱にリーチを懸け、“若貴ダブル昇進”というこれ以上ないホットな話題で持ち切りだった。
国民的人気を誇った元大関初代貴ノ花の息子として生まれた兄弟は、やがて父親のもとに弟子入りし、「親子」は「師弟」となった。元人気大関の息子として、幼少時から注目を浴びてきた2人は、今や伝説となった猛稽古によって、国民の期待どおりに順調な出世を遂げ、不動の人気も確立していった。
“サラブレッド”の兄弟たちに立ちはだかったのが、ハワイからやって来た身長2メートルを超す大男だった。彼らは昭和63年春場所が初土俵の同期生。
入門当初からしのぎを削っていったが、曙が一足先に角界の頂点に上り詰め、外国出身初の横綱になった。
判官贔屓な日本人の国民性もあってか、ライバル競争はおのずと“ベビーフェイスvsヒール”という構図が出来上がり、熱を帯びていく。平成初期に沸き起こった空前の相撲ブームは“若貴”だけでなく、敵役を宿命づけられた男の存在も抜きには語れない。
曙と若貴兄弟、三つ巴の優勝決定戦へ
横綱初優勝に燃える曙は前場所同様、名古屋場所もリーチの長さを生かしたもろ手突きからのパワー全開の突き押しで、出だしから連勝街道をばく進。綱取りに挑む貴ノ花は三日目、琴錦に不覚を取ると、初日から9連勝としていた “お兄ちゃん” 若ノ花もまた、琴錦の突き落としに屈して十日目に初黒星を喫した。
貴ノ花は十一日目にも栃乃和歌に引き落とされて痛恨の2敗目。
全勝の曙とは2差がつき、当時の横綱昇進は連覇が絶対条件というムードがあり、極めて厳しい状況となった。
独走態勢の一人横綱に「待った」をかけたのが、“若貴”と同じ二子山部屋の兄弟子だった。
曙は十二日目、安芸ノ島の引き落としに土をつけられたが、翌日は若ノ花を押し倒すと十四日目もハワイの先輩、大関小錦を上手投げに降して1敗を守った。
千秋楽、若ノ花は1分を超す長い相撲の末、小錦を寄り切って13勝目。優勝決定戦の権利を手中にした。結びで曙が勝てば優勝、貴ノ花が勝てば13勝2敗で並ぶ同期生3人による優勝決定巴戦。注目の一番は貴ノ花が曙の左右ののど輪攻めを辛抱強く下から撥ね上げると、相手の引きにも乗じて押し出し。賜盃のゆくえは優勝決定戦に持ち込まれ、ファン待望の“兄弟対決”がついに実現かと、会場の愛知県体育館は異様な空気に包まれた。
瞬間最高視聴率66.7%、
巴戦の結末は…
抽選の結果、貴ノ花が控えに回り、巴戦最初の一番は曙対若ノ花。食いつかれれば不利とばかりに、横綱は強烈な突き放しで押し倒すと、続く貴ノ花戦も左上手を引きつけて一気に走って寄り倒し。
「一発目(本割)で決めたかったけど、悪い相撲で負けてしまった。気持ちを入れ替え、横綱のプライドを持って思い切っていった」
平均視聴率37.6%、瞬間最高視聴率66.7%と国民が注視する中、曙は兄弟もろとも土俵下まで吹っ飛ばし、ファンの夢を完膚なきまでに打ち砕く圧倒的な強さで4度目の優勝を果たしたのだった。
貴ノ花は夏場所で14勝の優勝、名古屋場所で13勝の優勝同点というハイレベルの成績を残しながら、“2場所連続優勝でないから” という理由で、最年少横綱は見送られ、若ノ花は直近3場所37勝という文句なしの成績で場所後、大関に推挙された。
第一人者としての責任、横綱初優勝、ライバルへの意地、すべての思いを結実させた曙は、この場所から3連覇を達成。
24歳のこの年が全盛期と言えたが、“ヒール”が強かったからこそ、“若貴”もまた輝きを増したのだった。
時代は下り、今年の名古屋場所も例年に比べれば、そこまでの酷暑ではなく連日、熱戦が繰り広げられている。
夏場所に続き、混戦模様の優勝争いは、横綱照ノ富士が抜け出しそうな気配だが、初優勝を目指す逸ノ城も不気味な存在であり、終盤戦に突入してもまだまだ予断を許さない。
(「大相撲PRESS」荒井太郎 = 文)
・・・
番組視聴率は「千代の富士vs北の湖の優勝決定戦」や「貴ノ花vs北の湖の優勝決定戦」には 大きく及ばなかったものの、
瞬間最高視聴率は、それまで歴代1位だった「千代の富士vs北の湖」を超えて大相撲史上1位の視聴率となりました。
私も勤務中でしたが、友人たちから仕事場に電話が何本も入り、『大変なことになってるから相撲中継を見ろよ』とのことで慌てて休憩室に走りこんでテレビを見ました。
日本中でそういうやり取りがあったんでしょう。30%台だった視聴率が2倍近くに跳ね上がったのですから。
まあ、大相撲史上初の兄弟対決を夢見たファンの思いは、“空気を読まないヒール?” 曙 により叶いませんでしたが、後に、兄弟対決は実現しましたね。
正代が、勝ち越しましたねぇ。
踏み込みが良かったし、前に前に出ましたね。
大関11場所で4度目のカド番を脱出、7度目の勝ち越し。
来場所からは、場所前にしっかり稽古して汗をかいて、体を温めてから本場所初日に臨んでもらいたいものです。
「コロナによる途中休場の場合に番付はどうする?」
「カド番大関が負け越し寸前だった時に途中休場となったらどうする?」
などの“もしも・・・”を何も想定していなかった?
協会の役員の職務分掌では、花籠理事(元太寿山)が危機管理担当部長。それを補佐するのが鏡山(元多賀竜)ですが!お二人とも
どうも予想通りのボンクラさんのようで“危機管理”とは名ばかり。何も機能してなかったみたいですね。
そんなお年寄りに、できない職務と年寄株を与えてないで、年寄株を持てずに困ってる古参力士や鶴竜親方ら若手親方に年寄株とコロナ対策などの危機管理の職務を与えて若い目線・生きた視線で活躍してほしい。
と、協会に意見書をメール送付しました。
角界クラスター
コロナによる途中休場が相次ぎ、両者休場による両者不戦敗が続出
田子ノ浦部屋・出羽海部屋・放駒部屋・武蔵川部屋に続いて佐渡ヶ嶽に玉ノ井も。
前日に部屋関係者でコロナ陽性が判明した佐渡ケ嶽部屋と玉ノ井部屋、新たに判明した浅香山部屋の力士は既に十二日目の割が組まれていたため全員不戦敗となりました。
このうち、休場力士同士で組まれていた対戦が2番。
三段目の小原(浅香山)vs 琴ノ藤(佐渡ケ嶽)と、
幕下の琴大樹(佐渡ケ嶽)vs 魁郷(浅香山)では「両者不戦敗」の扱いとなりました。
残っている資料によると、過去にもわずかながら両者不戦敗はありました。
1978昭和53年夏場所千秋楽、既に休場届を出していた序二段・川村(時津風)の対戦相手である富士ノ浦(九重)が取組の時間に遅刻して両者不戦敗に。
また、1995平成7年春場所二日目には 序ノ口・沖ノ石(峰崎)の休場と 同日に矢風(尾車)が廃業した という事例もありました。
「コロナによる途中休場の場合に番付はどうする?」
「カド番大関が負け越し寸前だった時に途中休場となったらどうする?」
などの“もしも・・・”を何も想定していなかった?
協会の役員の職務分掌では、花籠理事(元太寿山)が危機管理担当部長。それを補佐するのが鏡山(元多賀竜)ですが!お二人とも
どうも予想通りのボンクラさんのようで“危機管理”とは名ばかり。何も機能してなかったみたいですね。
夏場になると二八で夏は暇なので、今は又コロナも加わり余計に、、、
それで浴衣祭りなど、各お店で催すのですが、対抗して浴衣ではなく、ムームー祭り催すお店もあるのですが、北の富士さん流にアッパッパー!祭りでもしようかな?
冗談ですが、アッパッパー って何なんて言われそうですね。
名古屋行くつもりでしたが、コロナ増えているので、、、考え中です。
昨日の解説での北の富士さんの“名古屋は暑かった!お客さんも男はステテコ、ご婦人はアッパッパ……”
今どきアッパッパはないでしょ? ムームー?
過去帳を開くと
たしかに、北の富士さんは暑い名古屋では、成績が芳しくありませんでした。
初めての名古屋場所は
1958昭和33年、本名の“竹澤”で臨んだ序二段で3勝5敗、
次の年、“竹見山”という四股名をもらって三段目で2勝6敗。
(この頃までの幕下以下は8番相撲)
さらにその翌年も2勝5敗。
なかなか番付が上がらす、師匠九重(元横綱千代の山)から “北の富士”の四股名を頂きました。
翌1961昭和36年に幕下で6勝1敗と名古屋で初の勝ち越し。
しかし、その翌年には3勝4敗。
十両に上がった昭和38年も4勝11敗。
他の場所では勝ち越しが多くじわじわ番付を上げているのに名古屋で足踏みという番付的には逆戻り、“暑さ負け”してましたね。
しかし、その昭和38年の冬、九州場所、十両で15戦全勝優勝。新入幕を果たすと13勝して一気に番付を上げ、昭和39年の名古屋では新関脇で9勝。
そして暑い暑い金山体育館から空調のある愛知県体育館へ移った昭和40年に8番勝ち、さらに翌年も10勝して大関昇進となりました。
しかし大関で迎えた初の名古屋では負け越し。前場所も負け越していたので2場所連続負け越し・・・カド番となってしまいました。
続く昭和43年・44年と10勝・9勝。
昭和45年は横綱として迎えた名古屋場所で 13勝して名古屋場所での初優勝。
ただ、その翌年は8勝7敗、さらに翌年(昭和47年)は、例の不眠症による途中休場の次の場所で張り切り過ぎたか場所前の稽古で左手中指を脱臼してしまい全休。
その翌年の名古屋では絶好調。大受に押し出された1敗のみで、若き横綱輪島や大関貴ノ花、まだ平幕だった“怪童”北の湖らを全て左四つからの一気の寄り切りで下し14勝しましたが、琴櫻との優勝決定戦に敗れ優勝を逃しました。
そして最終年となった昭和49年、初場所後の部屋での稽古で右膝を傷め、春場所と夏場所を全休し、背水の陣で臨んだ名古屋でしたが、初日に旭國、二日目に大受に連敗。場所前に後輩横綱の琴櫻が引退してしまったこともあり、“(御本人曰く)じゃ、俺も早く辞めなきゃ”と? ついに引退を発表。
戦前・戦中生まれの横綱は誰もいなくなり、横綱は昭和23年生まれの若き横綱輪島ひとりとなってしまいました。
結局、北の富士さんは
大関昇進前までの名古屋場所通算成績は47勝50敗と負け越し。
場所中の宿舎(お寺)も冷房は当然なかったでしょうし、涼を求めて夜の街に繰り出したり、さぞかし、勝負には集中できなかったことでしょう。
あっつちぁー、楽しみにしていたコラムお休みだ。
朝の楽しみ減ったわ。
体調不良でなければよいが、、、
後少し頑張ってほしいわ。
昨日のラジオ解説での北の富士さん
関脇若隆景は平幕碧山に はたき込まれ6勝5敗となった一番で、NHKラジオ解説を務めた北の富士勝昭さんは、
「今場所後の大関昇進が厳しくなったとみられる若隆景」と実況の佐藤洋之アナウンサーに話を振られると
『10勝5敗でも大関になった人いるんだからね』と激励?自虐?のコメント。
すると佐藤アナは
「北の富士さんは、当時、そうそうたる面々の中で大関昇進を果たしたということもありました」と必死にフォローしていました。
・・・北の富士さんの時は、大関北葉山が引退してしまい、大鵬・柏戸に加えて佐田の山や栃ノ海まで横綱に昇進したのに対して、大関が豊山一人。
4横綱1大関というバランスの悪い番付となってしまったことが要因です。
しかし、北の富士さんの前には初代若乃花がやはり10勝(3場所28勝)で、さらにプリンス貴ノ花(3場所33勝)、稀勢の里(3場所32勝)、貴景勝(3場所34勝)で、直近場所10勝ながら大関昇進を果たしてます。
3場所28勝で大関昇進した初代若乃花と北の富士さん。一部マスコミの懸念を見返すように、お二人とも見事に横綱へ昇進を果たし、ともに(当時歴代2位タイとなる)優勝10回の見事な横綱になりました。
ご存知 “栃若時代” “北玉時代” として、角界を背負う活躍をしましたね。