大相撲のコメント部屋

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externallinkコメント一覧

大相撲のコメント部屋 へのコメント 4,729件 』

  • 投稿者:おばぁ

    ほんとに少なくなってしまったね。
    常連さんそんなにいたんだ。
    何で辞めてしまったのかねー?
    突然初めての名前でコメントして、新しい人増えたと思うとそれっきりで、、、、変だね。
    活気ずいてほしいよね

  • 投稿者:KON

    6年半前に 61歳の若さで早逝した千代の富士
    その千代の富士の実姉がNumberに答えたロングインタビュー
    千代の富士のもうひとつの側面を一番よく知ってる実姉がロングインタビューに答えたものを何回かに分けてご紹介します。

    『ウルフ・ザ・ストーリー』1

    「小さい頃は くるくるっとした目でしたけど、相撲の、勝負の世界に入ってからはやっぱりあのキリッとした勝負師の顔になりましたよね。でも引退して数年たったら本当に柔らかい表情になっていたんですよ」

     優勝31回、通算1045勝を挙げ、2016年7月に亡くなった千代の富士。姉の小笠原佐登子さんはフィーバー前夜と引退後の様子を今でも懐かしそうに思い出す。
    国民栄誉賞を受賞し、“ウルフ”の愛称でも親しまれた先代九重親方が「なんでも話すことが出来た存在」と慕っていたのが 2歳年上の佐登子さんだった。
    生まれ故郷・北海道松前郡福島町に暮らす姉が土俵外で見せた弟の意外な一面を教えてくれた。
    「まさか相撲界に行くとは思っていなかったんです」

     遠くを見つめながらそう振り返るのは、優勝31回、通算1045勝を挙げ、2016年7月に亡くなった千代の富士の実姉、小笠原佐登子さん。

     昨年春には現役時代の「鋼の肉体」の写真が投稿され、「カッコイイと思って思わず保存したけど、なんて言う名前の力士なんですかね?」「大胸筋と腹筋、そして上腕二頭筋とかヤバい。本当に相撲取りか?合成写真か?」とSNS上で話題になった “ウルフ”。
    令和の世となっても新たにファンを獲得する“小さな大横綱”

    ―-漁師のお父さんの家庭に生まれて、そこで足腰を鍛えたと自伝などの書籍では書かれていますが、実際は?

    A
     大きな船から小さい船にイカをおろす作業とかを手伝っていたんですよ。大きな網の袋に入れて、それを小さな船に落としていく。休みの時にやっていて、船の上で作業する時のバランス感覚もよかったみたいで、中学に入ったらそういう助手的なことを立派にしていました。

    ――そこで鍛えられた?
    A
    いや、考えてみたら持って生まれた運動神経があったんじゃないですかね。こう言ったらちょっとあれだけどもね、親のいいところ100%あの人が持っていった。あっちは走れる。こっちは走れない。あっちは飛べる、こっちは飛べない。本当に何だろう。何やらしても、もう手先も器用だしねえ。引退後やケガをしている時になりますけど、七宝焼きや組紐とか手芸的なこともなんでもやれるんです。

    ――中学時代、走り高跳びや三段跳びで記録が残っているそう(過去記事によるとそれぞれ走り高跳び1m62、三段跳びは12m58)ですが、バスケ部だったんですよね?
    A
    バスケ部だったんですけど、100m何秒とかって記録は覚えてないけど、すごく速いタイムだったから、地域の陸上の大会とかには声をかけられていたんですよね。泳げば泳いだで速かったし。

    ――水泳も速かったんですか?
    A
    たしか当時は背泳ぎで校内の最速記録を残したりしていて。もう何やってもできるから、年上ながら羨ましかったですね。

    (つづく)

  • 投稿者:KON

    すっかり投稿者メンバーが減ったり 様変わりしてしまいましたね。
    福岡のMJさん・北の大地さん・シノブさん・九州のKさん・KSさん・イホさん・DWさん・by558さん・筋金のオヤジさん・ヒロさん・Gさん・Zさん・Hさんさん・Kさん・MMSさんB10さん・MKQさん…………
    皆さんお元気で過ごしていらっしゃるでしょうか?
    コロナとか交通事故とかに遭ってなければいいのですが。

  • 投稿者:KON

    大相撲ダイアリー 2月20日

    1925大正14年のこの日、江戸川区小岩で蛇の目傘製造業を営む大塚家で男児が誕生しました。
    名前は「清」。
    後に“名人横綱”と讃えられる栃錦清隆です。

    13歳で春日野部屋に入門。師匠春日野(元横綱栃木山)から『寝る時はエビのように小さくなって寝ろ。飯を食う時には大きな体で食え』という指導を受け忠実に教えを守って着実に番付を上げていった。
    入幕した時の体重はわずか75kgでしたが、元々運動神経抜群だった大塚少年は、ありとあらゆる技を覚えそれを実戦で磨くことに長けていた。
    十両昇進とともに、四股名を「大塚」から「栃錦」に改めました。
    師匠春日野から『栃木山の “栃” と、(同じ出羽海部屋の兄弟子で栃木山より先に横綱となっていた)大錦卯一郎の “錦” をつけておいた。』と軽く言い渡されたが、師匠からの期待の大きさを裏付ける四股名でした。
    この四股名に感銘を受けた栃錦は現役引退後、親方となって春日野部屋を継いでからも、弟子が関取になるとほぼ全員に “栃”のついた四股名を与えました。
    大師匠栃木山から厳しく教わった「脇を固めハズ押しで攻めるために両脇に藁(わら)を挟んでの押しの稽古」を実践し、技能賞においては5場所連続を含む9回も受賞しました。
    出し投げの切れ味は抜群で、羽黒山や鏡里・千代の山や東富士に吉葉山という大柄な横綱が犇めく昭和25~29年の横綱乱立時代を勝ち上がった。
    優勝10回、準優勝9回、大相撲史上初の幕内500勝達成。

    後から番付を駆け上がってきた初代若乃花とは毎場所のように熱戦を繰り広げ、“栃・若の一番”は、戦後の荒廃した日本に元気をもたらし、一般家庭へのテレビの普及には大きく貢献しました。(今でもYouTubeで栃・若対決を視ることができます)
    以前に、当時を知る先輩方50人以上に『栃若の相撲をテレビで見ていましたか?』と訊くと
    「必ず見てたよ」「自分は見てなかったけど父親や祖父母が見てたからテレビでは相撲中継が必ずかかっていた。」という返答ばかり。例外は3人だけでしたから、推計視聴率は低く見積もっても90%でしょう。

    残念ながら、長きにわたって協会の理事長職
    を務め多忙を極めたせいか?、栃錦の直接の弟子たちで横綱になった力士は誰もいません。
    幕内優勝も初代栃東ただひとり。
    (二代栃東は初代栃東が独立して玉ノ井部屋を興してから、栃ノ心は後任の春日野親方=栃乃和歌の時代になってから。)

    この2月20日は、やはり日本のテレビ普及に大きく貢献した“ミスター”長嶋茂雄さんやアントニオ猪木さんの誕生日でもあります。

  • 投稿者:KON

    大相撲ダイアリー2月19日

    1884明治17年のこの日、初代梅ヶ谷藤太郎に吉田司家から第15代の横綱免許が授与されました。
    福岡県朝倉市出身、玉垣部屋。
    身長 176cm 体重 105kgとずば抜けて大柄な力士とは言えなかった梅ヶ谷でしたが、極めて怪力でハズ押しで相手の差し手を絞り上げて上体を浮きあがらせてしまっていました。
    明治維新の後、文明開化の西洋化の波により、抜刀令が出たりちょん髷も廃止されそうになるなどの世の中の流れで、大相撲は存続の危機に陥っていた時代。次第に世間の大相撲への感心も冷めてしまい、不人気極まりない興行が続き、 “大相撲=時代遅れ”のイメージがついてまわっていたそうです。
    そんな中で梅ヶ谷が孤軍奮闘して大相撲の屋台骨を背負いました。
    この梅ヶ谷(初代)の活躍が後の「梅・常陸時代」(=二代梅ヶ谷と常陸山)の大相撲大繁栄に繋がりました。

    幕内戦歴
    116勝6敗18分2預78休 勝率 .951
    関取になって以降、11年あまりで負け越しは1度もなし。
    当時の10日間興行でひと場所で最も多く負けたのが2敗。
    大関在位期間中は 66勝3敗(勝率 .957)と圧巻の強さで、1876明治7年 – 1881明治12年にかけて 58連勝(分・預・休は除く)を記録し、新大関だった若嶌久三郎に敗れて連勝記録が一度止まるも、翌日から1884明治7年5月場所まで35連勝を記録した。
    昭和3年6月に、横綱経験者として最高齢となる83歳3ヵ月で亡くなりました。
    1斗酒を毎晩飲んでも、一向に酔わなかったという。
    江戸時代の1845弘化3年生まれにして昭和まで存命だった長生き。

    来月末に満81歳となる北の富士さんが、この梅ヶ谷の “横綱経験者最高齢記録” を更新しそうです。

  • 投稿者:匿名

    場所も終わり番組も少なくて寂しい限りですね。
    武隈部屋がある街だから、たまにですが力士さんがスーパーにいます。
    子供が喜ぶんですよね。
    前に頑張って下さいねと声かけたらあざーすと返されがっかりしたとコメントしましたが、うちのチビが大きいねと側でいったら僕もいっぱい食べておおきくなってとかえされて喜んでました。親方しっかりと教育したのかな?頑張ってほしいです。

  • 投稿者:すさ

    朝乃山の来場所の番付に関してですが十両据え置きか幕返り咲きか、
    果たしてどちらに決まってるのか大変興味深いです。
    普通に番付編成をして行けば北青鵬や水戸龍を上回るとは思えないのですが、
    デイリースポーツなど入幕濃厚と書いてるメディアもあるようです。
    たとえ今回据え置きであっても彼の目的達成が一場所遅れてしまう結果にはならないと私は思いますが、
    実力人気伴う力士で処分に同情する相撲ファンも当然多く、
    北の富士さんはじめちまたでは入幕への強い希望やその必然性を訴える意見も多いですね。

  • 投稿者:KON

    大相撲ダイアリー2月18日

    1938昭和13年のこの日、長崎県南松浦郡(現在の新上五島町)の佐々田家で男の子が誕生、後の第50代横綱となる佐田の山晋松でした。
    郷土(五島)の英雄 元大関 五ツ嶋奈良男に憧れて相撲を始め、栃錦・千代の山一行が長崎巡業に訪れた際に角界入りを決めました。
    182cm,129kgと均整のとれた筋肉質の体型で突き押し相撲を武器に、新入幕からわずか3場所目で幕内優勝を果たしました。
    前頭上位に番付を上げた翌場所も初代若乃花・朝潮の両横綱を撃破し、5大関のうちの大鵬や若羽黒に歯が立たなかったものの、大関柏戸・北葉山には勝利して11勝して、小結を通り越して一気に関脇へ昇進。関脇4場所目で2度目の幕内優勝を果たして昭和37年夏場所から大関に昇進しました。
    大関3年目に3度目の優勝で横綱昇進を決めました。
    3度の優勝全てがタイムリーな番付アップにつなげました。

    自身より身体がひとまわり大きな柏戸・大鵬にはなかなか通じませんでしたが、その他の力士には対戦成績で大きく勝ち越す安定した成績を収めました。
    次代を担う玉の海には12勝7敗、九重部屋が出羽海部屋から独立したことにより対戦するようになった弟弟子 北の富士にも4勝2敗と勝ち越してました。
    当時の横綱の多くが現役引退していた30歳で佐田の山も引退。
    出羽の海親方となり、後に境川理事長として協会改革に着手しました。
    6年近く前の2017年4月に満79歳で逝去されました。
    佐田の山以降、55年間、23人の横綱が誕生してますが、九州出身の横綱は輩出されておりません。
    (魁皇があと一歩までいきましたが残念ながら届かず)

    生粋の九州男児で、自分のことを『儂(わし)』と言い、無礼な行ないには厳しく、常に自らをも律していました。酒も強くて、大鵬や柏戸に迫る酒豪だったそうです。

  • 投稿者:匿名

    朝乃山が故郷の富山県に帰ったそうです
    後援者の人達に迎えられて良かったと思います

    取材のインタビューで朝乃山は
    テッペンを取りたいと言ったそうです
    記者がテッペンとは幕内優勝する事ですか?と聞いたら
    朝乃山はハッキリとテッペンとは横綱だと言ったそうです

    気持ちの中で、横綱を目指したいと思っていても。
    中々、口に出して言えないと思うけど
    ハッキリと言った事は本当にそう思っている事なのだと思います

    大関に戻る事が最終目的ではなくて、 その上の横綱を目指したい
    大関は、その目標の為の通過点なのですね

  • 投稿者:KON

    大相撲ダイアリー 2月17日

    1782天明2年の2月17日
    二代谷風梶之助が江戸本場所で 63連勝達成(63勝0敗2引き分け・2預り)。この間に京都相撲本場所・大坂相撲本場所での35連勝もあったので、それを加えると なんと『本場所98連勝』。
    あと一歩で100連勝という記録でした。
    しかし、翌日、相撲巧者の小野川喜三郎に屈して大連勝はついにストップとなりました。
    時の将軍は 10代将軍徳川家治。
    このすぐ後の11代将軍家斉の時に “将軍上覧相撲”が行なわれ、谷風と小野川に「横綱免許」がおりたのでした。
    それから6年後、円熟の境地を極め、再び「負けない相撲」を完成させた谷風が35連勝していた最中、インフルエンザに罹患して現役死してしまいました。
    享年44歳。
    二代谷風の生涯成績は、
    通算成績 258勝14敗16分16預5無勝負112休 勝率9割4分9厘 幕内在位49場所で優勝相当21回

    この幕内勝率9割4分9厘は、雷電為右衛門(9割6分2厘)、梅ヶ谷藤太郎(初代)(9割5分1厘)に続く史上3位。
    横綱在位勝率は、9割6分5厘(55勝2敗5分1預2無勝負36休、勝率9割6分5厘、11場所で優勝相当3回)。
    横綱在位ひと場所のみで幕末の戊辰戦争で西郷隆盛陣営に走った為に角界を離れてしまった12代横綱の陣幕久五郎の勝率10割(9勝0敗) を除けば、明治末期~大正の第22代横綱の太刀山峰右エ門の勝率9割6分6厘(84勝3敗1分1預51休)に次ぐ 史上2位。

    明治後期までは “横綱”は名誉称号だったので、
    『横綱成績を含む大関以上での勝率』を古今十傑の力士らと比較すると

    1位 陣幕 勝率1.000
    横綱ふた場所目を前に戊辰戦争へ走って相撲界を去った陣幕(勝率1.000)

    2位 雷電(為) .9615
    3位 二代谷風 .9610
    4) 太刀山 .9583
    5) 初代梅ヶ谷 .9565
    6) 栃木山 .939
    7) 小野川 .923
    8) 稲妻雷五郎 .911
    9) 常陸山 .902
    10) 双葉山 .895

    以下、
    大正時代の大錦(卯)が勝率 .879。
    戦後では 
    白鵬が .8696
    大鵬が .850
    千代の富士が .8478
    朝青龍が .8364
    貴乃花が .8167 
    北の湖 .8106
    と続いている。

    北の湖の勝率.8106でも15日間に換算すると12.2勝となり、
    白鵬の勝率.8696が15日間で13.0勝に値します。
    そして歴代6位の栃木山の勝率13.9勝は15日間換算で14.09勝となります。

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