TheNews(ザ・ニュース) > コメント部屋 > 大相撲のコメント部屋大相撲のコメント部屋 ※コメントを投稿する際は「コメントのルール」を一読ください。 ※誹謗中傷、なりすまし、野球に直接関係ないコメントは「NGコメント」、以上の行為を繰り返すと「NGユーザー」の対象となります。 ※2019年7月1日からコメントの確認・サイト掲載時間は9時~18時の間のみです。またコメント反映までは1時間程度を目安としてください。 ※フィーチャーフォン(ガラケー)の投稿機能に関しましては、動作を保証するものではありませんのでご了承ください。
アナザー・ウルフストーリー2” 千代の富士本人は最初は「相撲は好きじゃない」と断っていたが、親方の「飛行機に乗せてやる」の一言で心が動く。飛行機などのプラモデルづくりに夢中になっていただけに、その本物に乗せてもらえると聞いて胸が躍った。 漁師だった父も反対していたものの、親方から「中学を卒業するまで東京で私に預けてくれませんか。それで見込みがなければあきらめます。見込みがあればいっぺん帰して、改めてお願いに来ます」と説得され、ついに折れた。 こうして憧れの飛行機で上京し、新弟子検査に合格してその年の秋場所で本名の「秋元」で初土俵を踏む。四股名はこのあと「大秋元」を経て、翌1971年の初場所に際し、九重親方が「千代の富士」とつけてくれた。親方の現役時代の四股名である千代の山と、前出の横綱・北の富士からそれぞれ名前を取ったのである(ただ、自伝ではどれも触れられていないが、「富」の字は当初は頭に点のない「冨」を用い、1975年の初場所より改めた)。 最高の四股名をつけてもらったものの、本人にはまだ力士になるつもりはなく、中学を卒業したら帰郷して地元の高校で陸上をやりたいとひそかに思っていた。卒業が翌月に迫ると、意を決して親方に、約束どおり北海道に帰してほしいと伝える。すると親方はあわてて止め、おかみさんとともに説得にかかった。 それでも千代の富士は「約束が違う」と頑なになり、抵抗のためしばらくだんまりを決め込む。これに手を焼いた親方はついに両親に連絡をとり、地元の関係者たちとも話し合ってもらい、そのうえで後日、彼を呼んで実家の父親と電話で話してもらう。 父から高校に行きたいのだろうと図星を突かれると、千代の富士は大きくうなずいていた。父を通じて彼の思いを理解した親方は、それなら東京の高校に行けばいいと言ってくれた。 著書『負けてたまるか』で彼は、このときの親方を振り返り、《一度、北海道へ帰してしまったら再び相撲界に戻ってこない、と必死だったのだろう。今、思えば「引き留めてもらって」本当にいくら感謝しても、亡き先代九重親方(元横綱千代の山)には頭が上がらない》と書いている。 こうして千代の富士は、明治大学付属中野高校に入れてもらうのだが、相撲との両立がままならず、けっきょく中退する。相撲1本で行かせてほしいと申し出たところ、親方は涙を流して「やっと相撲取りになったな。これからだぞ」と喜んでくれたという(『綱の力』)。 現代の感覚からすれば、九重親方は一見本人の意思を尊重したようでいて、何としてでも力士にしようと、あの手この手で囲い込んだようにも思える。 1972年に日本相撲協会は、前年の文部省(現・文部科学省)の通達を受け、「中学生は力士として採用しない」と決めたとはいえ、たとえもう少し年上の少年が相手でも、いま同じようなやり方で慰留したら、問題になりそうである。もちろん、親方が引き留めたのは、それだけ千代の富士が将来を嘱望されていたということであるが。 (つづく)
“アナザー・ウルフストーリー” 自伝の1冊が『ウルフと呼ばれた男』と題されたとおり、ウルフは千代の富士の代名詞であった。 名づけ親は、九重部屋の先輩で、のちには師匠となる第52代横綱・北の富士である。時期的には、入門2年目の1971年(当時16歳)、11月の九州場所を足のけがで全休し、そのけがが治り、だんだん相撲が面白くなっていたころだという (著書『綱の力』より)。 北の富士は当時まだ現役の横綱で、千代の富士は稽古をつけてもらっても、いとも簡単に転がされてばかりだった。それでもなお意地になって、目をむき、まだ髷の結えない伸びかけの髪を振り乱して向かってくる彼を、北の富士は「まるで飢えた狼のようだ」となぞらえたのである。そのころの写真を見ると、ざんばら髪に鋭い目つきをしており、たしかに狼のようだ。 ただ、『私は かく闘った』収録のインタビューでは、また違った命名の経緯が語られている。時期はちょんまげを結う前と変わりはないが、稽古中ではなく、博多(ということは九州場所中か)でアラのチャンコをつくったときのことだとある。アラは大きな魚なので普通の包丁ではなかなか切れない。そこでナタみたいなものを使っていたら、北の富士が「おっ、狼みたいだな」と言ったらしい。 狼と呼ばれ出したときの当人の気持ちも、本によって記述が違う。『ウルフと呼ばれた男』では、《そんなに嫌ではなかった。耳をピンと立て、きりっとしまった胴、精悍な感じがあった。その狼がいつの間にかウルフという呼び名になったが、ウルフのほうがさらに気に入った》とある。 だが、『不撓不屈』では、《初めはどうもこの仇名が気に入らなかった。正直に言うと嫌で嫌でたまらなかった。 ときには当時まだ現役横綱だった北の富士に、『おい千代の富士、ちょっと窓開けて吠えみろ』などとからかわれる。 “狼”なんて、なにか悪者みたいなイメージだ。そんなに悪漢みたいな顔になったのかなと鏡を見て悩んだりもした》と、まったく正反対の心情が吐露されている。細かい書きぶりからも、むしろこちらが本心だったのではないかと思わせる。 『不撓不屈』によれば「ウルフ」の命名も北の富士で、番付が上がるにしたがい そう変わったという。《こっちのほうはなんとなく気に入った。少なくとも“狼”よりはいい》とあるから、よっぽど狼と呼ばれるのは嫌だったのだろう。 「おい千代の富士、ちょっと吠えてみろ」 “伝説の横綱”千代の富士の告白 「正直、嫌で嫌でたまらなかった…」なぜ16歳で “狼”と呼ばれた? (つづく)
ウルフ・ザ・ストーリー14 千代の富士本人の死因3 千代の富士が膵臓の手術を行なった病院は、日本の医療の最高峰といっていい病院でしたが、「手術ですべての病巣を取り除くのは難しい」と判断されたとか。 そこで、医師は抗がん剤治療をすすめたそうですが、千代の富士はそれを保留し、セカンドオピニオンを求めたということです。 抗がん剤治療は、「癌」の転移などによって、手術による病巣の除去が難しい場合や、手術の前に少しでも病巣を小さくしておく目的で行なわれるのが一般的。 ただし、抗がん剤は「癌」以外の正常な細胞にも作用してしまうため、激しい副作用を伴うことが多いといいます。 千代の富士が頼ったセカンドオピニオンなのですが、名前は「UMSオンコロジークリニック」です。 UMSがあるのは、鹿児島市で鹿児島空港から車で40分ほど。 県内一の繁華街にほど近い場所にある6階建てのこぢんまりした建物にあるそうです。 そこで、千代の富士はまず、UMSで治療が可能かどうか、病気の画像データなどを持参して相談。 すると、病院側は「抗がん剤を多量に使用しなくても治療する方法がある」と提案したということです。 そして、全国でここしか行なわれていない「四次元ピンポイント照射療法」という放射線治療を2015年に入ってから受けることになります。 結局、千代の富士は年明け頃から通い始めて、数か月に1度、1週間程度泊まりがけで鹿児島の病院に通院。 食道が焼けるような 度数75度というロンリコを飲むほどの大酒豪で知られた千代の富士でしたが、「膵臓癌」が発覚して以降、激やせ。 アルコールは一滴も口にしておらず、まさに現役時代さながらの不屈の闘志で癌と闘っていたのです。 しかし、「余命5年」と言われる病に勝てず、最後は東京都内の病院で亡くなってしまったようです。 (つづく)
ウルフ・ザ・ストーリー 13 元横綱・千代の富士(九重親方)の不幸 千代の富士本人の死因 2 死因となった膵臓癌は、すべての癌の中でも「最も恐ろしい癌」とされています。 また、膵臓癌は発見も難しく、見つかった時にはすでに進行しているケースが非常に多い病気。 早い段階でリンパ節に転移してしまう可能性が高く、切除手術が成功しても約7割が再発するとも言われるのが、この「膵臓癌」の特徴です。 結局のところ、根治には外科手術で病巣を完全に切除するしかありません。 ですが、手術したとしても5年生存率は極めて低く、3%とも5%とも言われ、「余命5年説」とされる重病。 手術後の千代の富士は驚くほどの激やせぶりでしたが、それでも元気な姿を見せていた時もあったのです。 しかし、最後はやはり病気に勝てなかったというわけです。 死因となった千代の富士の「膵臓癌」は、年に1度受けていた健康診断で発見されたそうです。 生前、千代の富士は都内の大学病院で毎年、誕生月の6月に健康診断を受けており、そこで膵臓癌が見つかったとか。 すぐに入院して、摘出手術を受けた後、さらに検査を進めると、他の部位にも転移していることがわかったそうです。 (つづく)
大相撲ダイアリー3月4日 2001平成12年の3月4日 春場所の番付が発表され、前の場所において幕内下位で全休した闘牙が十両へ転落した為、1882明治15年5月場所から120年も続いていた 高砂部屋からの幕内力士輩出が途絶えました。 この時、幕内に上がってきていた朝青龍は、この時はまだ若松部屋所属でした。(翌年に高砂部屋となりました)
ウルフ・ザ・ストーリー12 千代の富士の不幸 千代の富士本人の死因 死因は、2015年6月に早期の手術を受けた「膵臓癌(すいぞうがん)」。 膵臓癌手術は、6月中旬から下旬にかけて行われ、約1カ月の入院治療の後、7月下旬には退院していたそうです。 その後、千代の富士は公の場に姿を現すも、変わり果てた激やせ姿に誰もが驚いたとか。 当時は病気のことを世間に内緒にしていたので、その場にいたマスコミなんかは、「重病ではないか」と大騒ぎになったといいます。 なお、千代の富士が患った「膵臓癌」は、見つかった時にはすでに進行しているケースが非常に多く、手術したとしても余命5年と言われる病気です。(5年生存率は極めて低く、3%とも5%ともされています。) その後、鹿児島の病院で放射線治療に取り組んでいることが一部で報じられ、2016年7月31日、東京都内の病院で亡くなりました。 生前の千代の富士の病状について、一部のマスコミは「抗がん剤治療を行わず、放射線治療に取り組んでいる」と報じていました。 ちょうどそのころ、都内のイベントに出席していた次女でモデルの秋元梢は、「膵臓癌で闘病中」と報じられた父親の病状について問われるも、終始無言だったとか。 それだけ、千代の富士の病状は深刻だったのです。 (つづく)
織田信長や羽柴秀吉など大名が 好角家(相撲好き)なのは有名ですが レスリングやボクシングなど 海外の格闘技と相違点を比較すると 更に面白いと思います? 結局は強い人はどこにでもいます! これからも頑張って下さい♪
ウルフ・ザ・ストーリー 11 元横綱・千代の富士(九重親方)の不幸 千代の富士の愛娘の死因 千代の富士の子供といえば、ショップ店員兼モデルで長女の秋元優(ゆう)さんとショップ店員で長男の秋元剛さん。 モデルで次女の秋元梢ですが、実はもうひとり娘がいました。 その娘の名前は愛ちゃんといって、1989年に生後3カ月で突然亡くなっています。(没後、台東区の玉林寺に葬られています) ただ、突然死と言っても事故とかではなく、死因は「乳幼児突然死症候群」という乳幼児が突然死をもたらす疾患でした。 この「乳幼児突然死症候群」ですが、日本での発症頻度はおよそ出生6,000~7,000人に1人と推定され、生後2ヵ月から6ヵ月に多いとされています。 また、はっきりとわかっていませんが、以下の様な原因で発症することが多いとか。 「男児」、「早産児」、 「低出生体重児」、「冬季」、 「早朝から午前中に多い」、 「うつぶせ寝」、「両親の喫煙」、「粉ミルクで育てた」など。 生後3ヶ月~6ヶ月までは母親からの免疫で様々な病気から守られてる赤ちゃんが多いそうで、半年を過ぎると突然死する事例が数多く報告されてます。 愛ちゃんは、母親からの免疫期間が平均よりも短かったのかもしれません。
大相撲ダイアリー 3月3日 1570永禄13年のこの日 近江の国=現在の滋賀県湖南市にある常楽寺にて、織田信長上覧相撲が執り行なわれました。 このことは、「信長公記」にも明確に記されています。 まだこの時代は、戦国時代。 相撲興行は京都本場所と大坂本場所のみで、江戸には相撲興行が行なわれておりませんでした。 もちろん、信長上覧相撲は、本場所とは別に、力士たちが常楽寺へ赴いて、信長の御前で相撲を披露。 取組が進み、最後に“結び三番”となって、まず東西の小結同士の対戦、次に関脇同士の対戦、最後の最後に東西の大関同士が対戦して、相撲好きの信長様に力相撲をご覧に入れました。 この頃まで、人垣でできた輪の中で行なわれていた相撲を『地面に円を描いて、その中で相撲を取るように』と指示して相撲を取らせたそうで、これが円形の土俵の始まりだそうです。
『 大相撲のコメント部屋 へのコメント 4,729件 』
アナザー・ウルフストーリー2”
千代の富士本人は最初は「相撲は好きじゃない」と断っていたが、親方の「飛行機に乗せてやる」の一言で心が動く。飛行機などのプラモデルづくりに夢中になっていただけに、その本物に乗せてもらえると聞いて胸が躍った。
漁師だった父も反対していたものの、親方から「中学を卒業するまで東京で私に預けてくれませんか。それで見込みがなければあきらめます。見込みがあればいっぺん帰して、改めてお願いに来ます」と説得され、ついに折れた。
こうして憧れの飛行機で上京し、新弟子検査に合格してその年の秋場所で本名の「秋元」で初土俵を踏む。四股名はこのあと「大秋元」を経て、翌1971年の初場所に際し、九重親方が「千代の富士」とつけてくれた。親方の現役時代の四股名である千代の山と、前出の横綱・北の富士からそれぞれ名前を取ったのである(ただ、自伝ではどれも触れられていないが、「富」の字は当初は頭に点のない「冨」を用い、1975年の初場所より改めた)。
最高の四股名をつけてもらったものの、本人にはまだ力士になるつもりはなく、中学を卒業したら帰郷して地元の高校で陸上をやりたいとひそかに思っていた。卒業が翌月に迫ると、意を決して親方に、約束どおり北海道に帰してほしいと伝える。すると親方はあわてて止め、おかみさんとともに説得にかかった。
それでも千代の富士は「約束が違う」と頑なになり、抵抗のためしばらくだんまりを決め込む。これに手を焼いた親方はついに両親に連絡をとり、地元の関係者たちとも話し合ってもらい、そのうえで後日、彼を呼んで実家の父親と電話で話してもらう。
父から高校に行きたいのだろうと図星を突かれると、千代の富士は大きくうなずいていた。父を通じて彼の思いを理解した親方は、それなら東京の高校に行けばいいと言ってくれた。
著書『負けてたまるか』で彼は、このときの親方を振り返り、《一度、北海道へ帰してしまったら再び相撲界に戻ってこない、と必死だったのだろう。今、思えば「引き留めてもらって」本当にいくら感謝しても、亡き先代九重親方(元横綱千代の山)には頭が上がらない》と書いている。
こうして千代の富士は、明治大学付属中野高校に入れてもらうのだが、相撲との両立がままならず、けっきょく中退する。相撲1本で行かせてほしいと申し出たところ、親方は涙を流して「やっと相撲取りになったな。これからだぞ」と喜んでくれたという(『綱の力』)。
現代の感覚からすれば、九重親方は一見本人の意思を尊重したようでいて、何としてでも力士にしようと、あの手この手で囲い込んだようにも思える。
1972年に日本相撲協会は、前年の文部省(現・文部科学省)の通達を受け、「中学生は力士として採用しない」と決めたとはいえ、たとえもう少し年上の少年が相手でも、いま同じようなやり方で慰留したら、問題になりそうである。もちろん、親方が引き留めたのは、それだけ千代の富士が将来を嘱望されていたということであるが。
(つづく)
“アナザー・ウルフストーリー”
自伝の1冊が『ウルフと呼ばれた男』と題されたとおり、ウルフは千代の富士の代名詞であった。
名づけ親は、九重部屋の先輩で、のちには師匠となる第52代横綱・北の富士である。時期的には、入門2年目の1971年(当時16歳)、11月の九州場所を足のけがで全休し、そのけがが治り、だんだん相撲が面白くなっていたころだという
(著書『綱の力』より)。
北の富士は当時まだ現役の横綱で、千代の富士は稽古をつけてもらっても、いとも簡単に転がされてばかりだった。それでもなお意地になって、目をむき、まだ髷の結えない伸びかけの髪を振り乱して向かってくる彼を、北の富士は「まるで飢えた狼のようだ」となぞらえたのである。そのころの写真を見ると、ざんばら髪に鋭い目つきをしており、たしかに狼のようだ。 ただ、『私は かく闘った』収録のインタビューでは、また違った命名の経緯が語られている。時期はちょんまげを結う前と変わりはないが、稽古中ではなく、博多(ということは九州場所中か)でアラのチャンコをつくったときのことだとある。アラは大きな魚なので普通の包丁ではなかなか切れない。そこでナタみたいなものを使っていたら、北の富士が「おっ、狼みたいだな」と言ったらしい。
狼と呼ばれ出したときの当人の気持ちも、本によって記述が違う。『ウルフと呼ばれた男』では、《そんなに嫌ではなかった。耳をピンと立て、きりっとしまった胴、精悍な感じがあった。その狼がいつの間にかウルフという呼び名になったが、ウルフのほうがさらに気に入った》とある。
だが、『不撓不屈』では、《初めはどうもこの仇名が気に入らなかった。正直に言うと嫌で嫌でたまらなかった。
ときには当時まだ現役横綱だった北の富士に、『おい千代の富士、ちょっと窓開けて吠えみろ』などとからかわれる。
“狼”なんて、なにか悪者みたいなイメージだ。そんなに悪漢みたいな顔になったのかなと鏡を見て悩んだりもした》と、まったく正反対の心情が吐露されている。細かい書きぶりからも、むしろこちらが本心だったのではないかと思わせる。 『不撓不屈』によれば「ウルフ」の命名も北の富士で、番付が上がるにしたがい そう変わったという。《こっちのほうはなんとなく気に入った。少なくとも“狼”よりはいい》とあるから、よっぽど狼と呼ばれるのは嫌だったのだろう。
「おい千代の富士、ちょっと吠えてみろ」
“伝説の横綱”千代の富士の告白
「正直、嫌で嫌でたまらなかった…」なぜ16歳で “狼”と呼ばれた?
(つづく)
ウルフ・ザ・ストーリー14
千代の富士本人の死因3
千代の富士が膵臓の手術を行なった病院は、日本の医療の最高峰といっていい病院でしたが、「手術ですべての病巣を取り除くのは難しい」と判断されたとか。
そこで、医師は抗がん剤治療をすすめたそうですが、千代の富士はそれを保留し、セカンドオピニオンを求めたということです。
抗がん剤治療は、「癌」の転移などによって、手術による病巣の除去が難しい場合や、手術の前に少しでも病巣を小さくしておく目的で行なわれるのが一般的。
ただし、抗がん剤は「癌」以外の正常な細胞にも作用してしまうため、激しい副作用を伴うことが多いといいます。
千代の富士が頼ったセカンドオピニオンなのですが、名前は「UMSオンコロジークリニック」です。
UMSがあるのは、鹿児島市で鹿児島空港から車で40分ほど。
県内一の繁華街にほど近い場所にある6階建てのこぢんまりした建物にあるそうです。
そこで、千代の富士はまず、UMSで治療が可能かどうか、病気の画像データなどを持参して相談。
すると、病院側は「抗がん剤を多量に使用しなくても治療する方法がある」と提案したということです。
そして、全国でここしか行なわれていない「四次元ピンポイント照射療法」という放射線治療を2015年に入ってから受けることになります。
結局、千代の富士は年明け頃から通い始めて、数か月に1度、1週間程度泊まりがけで鹿児島の病院に通院。
食道が焼けるような 度数75度というロンリコを飲むほどの大酒豪で知られた千代の富士でしたが、「膵臓癌」が発覚して以降、激やせ。
アルコールは一滴も口にしておらず、まさに現役時代さながらの不屈の闘志で癌と闘っていたのです。
しかし、「余命5年」と言われる病に勝てず、最後は東京都内の病院で亡くなってしまったようです。
(つづく)
ウルフ・ザ・ストーリー 13
元横綱・千代の富士(九重親方)の不幸
千代の富士本人の死因 2
死因となった膵臓癌は、すべての癌の中でも「最も恐ろしい癌」とされています。
また、膵臓癌は発見も難しく、見つかった時にはすでに進行しているケースが非常に多い病気。
早い段階でリンパ節に転移してしまう可能性が高く、切除手術が成功しても約7割が再発するとも言われるのが、この「膵臓癌」の特徴です。
結局のところ、根治には外科手術で病巣を完全に切除するしかありません。
ですが、手術したとしても5年生存率は極めて低く、3%とも5%とも言われ、「余命5年説」とされる重病。
手術後の千代の富士は驚くほどの激やせぶりでしたが、それでも元気な姿を見せていた時もあったのです。
しかし、最後はやはり病気に勝てなかったというわけです。
死因となった千代の富士の「膵臓癌」は、年に1度受けていた健康診断で発見されたそうです。
生前、千代の富士は都内の大学病院で毎年、誕生月の6月に健康診断を受けており、そこで膵臓癌が見つかったとか。
すぐに入院して、摘出手術を受けた後、さらに検査を進めると、他の部位にも転移していることがわかったそうです。
(つづく)
2001年平成13年ですね。
闘牙、一場所で幕に復帰して3年ほど幕に居ましたからもったいなかったですね。
大相撲ダイアリー3月4日
2001平成12年の3月4日
春場所の番付が発表され、前の場所において幕内下位で全休した闘牙が十両へ転落した為、1882明治15年5月場所から120年も続いていた 高砂部屋からの幕内力士輩出が途絶えました。
この時、幕内に上がってきていた朝青龍は、この時はまだ若松部屋所属でした。(翌年に高砂部屋となりました)
ウルフ・ザ・ストーリー12
千代の富士の不幸
千代の富士本人の死因
死因は、2015年6月に早期の手術を受けた「膵臓癌(すいぞうがん)」。
膵臓癌手術は、6月中旬から下旬にかけて行われ、約1カ月の入院治療の後、7月下旬には退院していたそうです。
その後、千代の富士は公の場に姿を現すも、変わり果てた激やせ姿に誰もが驚いたとか。
当時は病気のことを世間に内緒にしていたので、その場にいたマスコミなんかは、「重病ではないか」と大騒ぎになったといいます。
なお、千代の富士が患った「膵臓癌」は、見つかった時にはすでに進行しているケースが非常に多く、手術したとしても余命5年と言われる病気です。(5年生存率は極めて低く、3%とも5%ともされています。)
その後、鹿児島の病院で放射線治療に取り組んでいることが一部で報じられ、2016年7月31日、東京都内の病院で亡くなりました。
生前の千代の富士の病状について、一部のマスコミは「抗がん剤治療を行わず、放射線治療に取り組んでいる」と報じていました。
ちょうどそのころ、都内のイベントに出席していた次女でモデルの秋元梢は、「膵臓癌で闘病中」と報じられた父親の病状について問われるも、終始無言だったとか。
それだけ、千代の富士の病状は深刻だったのです。
(つづく)
織田信長や羽柴秀吉など大名が
好角家(相撲好き)なのは有名ですが
レスリングやボクシングなど
海外の格闘技と相違点を比較すると
更に面白いと思います?
結局は強い人はどこにでもいます!
これからも頑張って下さい♪
ウルフ・ザ・ストーリー 11
元横綱・千代の富士(九重親方)の不幸
千代の富士の愛娘の死因
千代の富士の子供といえば、ショップ店員兼モデルで長女の秋元優(ゆう)さんとショップ店員で長男の秋元剛さん。
モデルで次女の秋元梢ですが、実はもうひとり娘がいました。
その娘の名前は愛ちゃんといって、1989年に生後3カ月で突然亡くなっています。(没後、台東区の玉林寺に葬られています)
ただ、突然死と言っても事故とかではなく、死因は「乳幼児突然死症候群」という乳幼児が突然死をもたらす疾患でした。
この「乳幼児突然死症候群」ですが、日本での発症頻度はおよそ出生6,000~7,000人に1人と推定され、生後2ヵ月から6ヵ月に多いとされています。
また、はっきりとわかっていませんが、以下の様な原因で発症することが多いとか。
「男児」、「早産児」、
「低出生体重児」、「冬季」、
「早朝から午前中に多い」、
「うつぶせ寝」、「両親の喫煙」、「粉ミルクで育てた」など。
生後3ヶ月~6ヶ月までは母親からの免疫で様々な病気から守られてる赤ちゃんが多いそうで、半年を過ぎると突然死する事例が数多く報告されてます。
愛ちゃんは、母親からの免疫期間が平均よりも短かったのかもしれません。
大相撲ダイアリー
3月3日
1570永禄13年のこの日
近江の国=現在の滋賀県湖南市にある常楽寺にて、織田信長上覧相撲が執り行なわれました。
このことは、「信長公記」にも明確に記されています。
まだこの時代は、戦国時代。
相撲興行は京都本場所と大坂本場所のみで、江戸には相撲興行が行なわれておりませんでした。
もちろん、信長上覧相撲は、本場所とは別に、力士たちが常楽寺へ赴いて、信長の御前で相撲を披露。
取組が進み、最後に“結び三番”となって、まず東西の小結同士の対戦、次に関脇同士の対戦、最後の最後に東西の大関同士が対戦して、相撲好きの信長様に力相撲をご覧に入れました。
この頃まで、人垣でできた輪の中で行なわれていた相撲を『地面に円を描いて、その中で相撲を取るように』と指示して相撲を取らせたそうで、これが円形の土俵の始まりだそうです。