大相撲のコメント部屋

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大相撲のコメント部屋 へのコメント 4,728件 』

  • 投稿者:KON

    春場所  初日の割。
    東方 過去対戦成績 西方
    西小結 翔 猿 3-4 西大関 貴景勝
    東関脇 若隆景 7-2 東前1 玉鷲
    西前1 正 代 3-6 西関脇 豊昇龍
    東関脇 霧馬山 3-1 東前2 阿炎
    東小結 若元春 (初顔) 西前2 竜電
    東前3 御嶽海 2-5 西小結 琴ノ若
    東小結 大栄翔 5-6 西前3 錦木
    東前4 阿武咲 6-6 西前4 明生
    東前5 琴勝峰 5-1 西前5 翠富士
    東前6 遠 藤 7-6 西前6 佐田の海
    東前7 北勝富士 8-12 西前7 高安

    二日目の割
    東前1 玉 鷲 8-13 西大関 貴景勝
    東前2 阿 炎 1-5 西関脇 豊昇龍
    東関脇 霧馬山 5-8 西前1 正 代
    東関脇 若隆景 6-5 東小結 大栄翔
    西前2 竜 電 2-1 西小結 琴ノ若
    東前3 御嶽海 4-2 西小結 翔猿
    東小結 若元春 4-1 西前3 錦木
    東前5 琴勝峰 1-3 西前4 明生
    東前4 阿武咲 0-2 西前5 翠富士
    東前7 北勝富士 5-2 西前6 佐田の海
    東前6 遠 藤 9-14 西前7 高安

  • 投稿者:KON

    北の富士勝昭が斬る
    大相撲春場所

    貴景勝、すっきりとした形で横綱に上がってもらいたい
    初場所は大関以上で出場するのは自分だけという苦しい状況ながら、大関貴景勝が最後までよく頑張ってくれた。平幕優勝が3場所続いたが、安定感という意味では、今の幕内の顔ぶれの中では貴景勝がいちばんだと思っていた。
    周りがどんどん崩れていったことも、1人大関にとっては幸いした。平幕の琴勝峰との千秋楽相星決戦となったが、最後は番付最上位の貴景勝が賜盃を抱く結果になってよかったと思う。琴勝峰もよく頑張ったが、次のチャンスも遅かれ早かれ、やってくるだろう。

    貴景勝の体調が特段よかったとは思わなかったが、やはり責任感がみんなより強かったということだろう。初場所もレベルの高い優勝ならば、場所後の綱取りの可能性も取り沙汰されていたが、12勝3敗の優勝でそこは話題に上らなかった。当然であろうが、春場所はいよいよ横綱に挑戦だ。初場所は優勝と言っても3つの取りこぼしがある。次の場所で連続優勝であれば、協会も横綱が欲しいだろうから、横綱審議委員会に諮問はするだろうが、やはり最低でも13勝は欲しい。相撲内容も問われてくる。12勝の優勝であれば、もろ手を挙げてというわけにはいかないだろう。こればかりは私らが決めることではなく、協会が決めることなので今からああだこうだと言っても始まらない。とにかく、すっきりとした形で横綱に上がってもらいたいものだ。自分の相撲を貫いて、大願を成就してもらいたい。
    過去に突き押しだけで横綱に昇進した例はないと思うが、貴景勝の相撲は今さら変えようがない。今から四つ相撲を稽古して身につけるなんて、どだい無理な話だ。今の相撲をさらに磨いていくしかない。優勝の記念撮影では、元大関北天佑の次女である奥さんと1人息子が一緒に写真に納まった。自分の子どもを抱いて写真を撮るのが、すっかり定番になったが、おそらく千代の富士が最初だろう。あのときは周りからいろいろ文句も言われたものだが、これはこれでいいのではないか。

    豊昇龍、いずれ大関になれる逸材だ
    初場所は関脇豊昇龍がすばらしい相撲で初日から4連勝した。私はこのまま突っ走るんじゃないかと思ったが、そうはいかなかった。けがをして休場しながら再出場し、何とか勝ち越したのは大したものだ。いずれ大関になれる逸材だと思うが、こういうのは勢いのあるうちに上がらないと、いったんつまずくとなかなか大変なのだ。
    若隆景も苦しみながらも9番勝ったが、やはり前半の負けがもったいない。あと1番勝っていれば、大関取りにつながっていたはずで、そうすれば優勝でもしたら一気にチャンスをつかむことだってあったであろう。いずれにしても、3場所28勝で大関に上げてもらった私は、こういった問題にはあまり口出しするべきではないと思っている。若隆景も28歳となり、年齢的にも最も力が出るころだろう。今でこそ30代の幕内力士はざらにいるが、大関、横綱に上がるなら、そうはいかなくなる。そろそろ上がってもいいころだ。
    霧馬山が三役で11勝を挙げたのは大きい。当初は足腰がよくてしぶといだけかと思ったが、見ていると相撲がうまい。左でまわしを取って頭をつけた体勢から何でもできる。なかなか器用な力士だ。突っ張って前に出る相撲もあるし、体もひと回り大きくなった。けがが少ないのもいい。鶴竜親方の指導もいいのだろう。よく考えて相撲を取っていると思う。
    新小結で9勝した若元春も立派だ。左四つになったら格上が相手でも互角以上の相撲を取る。部屋には弟の若隆景もいるし、よほどいい稽古をしているのだろう。私の家からも稽古場は近いから、今度見に行ってみようかな。ただ、相撲を見ていて、ちょっとここを直せばというのはある。左四つになったとき、顔が差し手とは逆の方向に向いているので、そこを直せばもっと強くなるだろう。私らが現役のころに言われたのは、あごで相手の首筋あたりを押さえつけるということだった。その体勢で差し手のほうに寄っていけば、もっと楽に勝てるだろう。若元春も有力な次期大関候補と言っていいだろう。兄弟大関も夢ではない。

    琴ノ若、年内には大関とりの足場を築くのではないか
    琴ノ若も初日から4連敗したときはどうなるかと思ったが、相撲内容はそれほど悪かったわけではなかった。しっかり前にも出るし、土俵際もなかなかしぶとい。“坊ちゃん育ち”の割には精神的にもかなりしっかりしている。年内には大関とりの足場くらいは築くのではないだろうか。

    前半戦がよかった大栄翔には優勝した場所の再来も期待したが、途中の3連敗が痛かった。2桁の星を残し、大関候補の1人ではあるが、押し相撲は1つ負けだすと歯車が狂うこともあり、どうしてもいいときと悪いときがある。九州場所で優勝した阿炎も初場所は8勝に終わった。場所中にどこか痛めたのであろう。突っ張れない相撲が何番かあった。やはり連覇というのはなかなか大変なのだ。だから、今は誰が本当に強いのか分からない。しばらくくすぶっていた琴勝峰が、ようやく復活の兆しを見せてくれたが、初場所は久しぶりに積極的な相撲が目立っていた。確かにいいものを持っているが、果たして次の場所でも初場所のような相撲が取れるのか。大器だけに期待したい。

    群雄割拠の時代を経て、若隆景、豊昇龍の両関脇が抜け出そうな感じではあるが、突出したものがない。けががなければ、豊昇龍はチャンスをつかんでいただろうが、案外、波に乗って霧馬山あたりが一気に駆け上がるかもしれない

    貴景勝、すっきりとした形で横綱に上がってもらいたい
    初場所は大関以上で出場するのは自分だけという苦しい状況ながら、大関貴景勝が最後までよく頑張ってくれた。平幕優勝が3場所続いたが、安定感という意味では、今の幕内の顔ぶれの中では貴景勝がいちばんだと思っていた。

    周りがどんどん崩れていったことも、1人大関にとっては幸いした。平幕の琴勝峰との千秋楽相星決戦となったが、最後は番付最上位の貴景勝が賜盃を抱く結果になってよかったと思う。琴勝峰もよく頑張ったが、次のチャンスも遅かれ早かれ、やってくるだろう。

    貴景勝の体調が特段よかったとは思わなかったが、やはり責任感がみんなより強かったということだろう。初場所もレベルの高い優勝ならば、場所後の綱取りの可能性も取り沙汰されていたが、12勝3敗の優勝でそこは話題に上らなかった。当然であろうが、春場所はいよいよ横綱に挑戦だ。初場所は優勝と言っても3つの取りこぼしがある。次の場所で連続優勝であれば、協会も横綱が欲しいだろうから、横綱審議委員会に諮問はするだろうが、やはり最低でも13勝は欲しい。相撲内容も問われてくる。12勝の優勝であれば、もろ手を挙げてというわけにはいかないだろう。こればかりは私らが決めることではなく、協会が決めることなので今からああだこうだと言っても始まらない。とにかく、すっきりとした形で横綱に上がってもらいたいものだ。自分の相撲を貫いて、大願を成就してもらいたい。

    過去に突き押しだけで横綱に昇進した例はないと思うが、貴景勝の相撲は今さら変えようがない。今から四つ相撲を稽古して身につけるなんて、どだい無理な話だ。今の相撲をさらに磨いていくしかない。優勝の記念撮影では、元大関北天佑の次女である奥さんと1人息子が一緒に写真に納まった。自分の子どもを抱いて写真を撮るのが、すっかり定番になったが、おそらく千代の富士が最初だろう。あのときは周りからいろいろ文句も言われたものだが、これはこれでいいのではないか。

    豊昇龍、いずれ大関になれる逸材だ

    初場所は関脇豊昇龍がすばらしい相撲で初日から4連勝した。私はこのまま突っ走るんじゃないかと思ったが、そうはいかなかった。けがをして休場しながら再出場し、何とか勝ち越したのは大したものだ。いずれ大関になれる逸材だと思うが、こういうのは勢いのあるうちに上がらないと、いったんつまずくとなかなか大変なのだ。

    若隆景も苦しみながらも9番勝ったが、やはり前半の負けがもったいない。あと1番勝っていれば、大関取りにつながっていたはずで、そうすれば優勝でもしたら一気にチャンスをつかむことだってあったであろう。いずれにしても、3場所28勝で大関に上げてもらった私は、こういった問題にはあまり口出しするべきではないと思っている。若隆景も28歳となり、年齢的にも最も力が出るころだろう。今でこそ30代の幕内力士はざらにいるが、大関、横綱に上がるなら、そうはいかなくなる。そろそろ上がってもいいころだ。

    霧馬山が三役で11勝を挙げたのは大きい。当初は足腰がよくてしぶといだけかと思ったが、見ていると相撲がうまい。左でまわしを取って頭をつけた体勢から何でもできる。なかなか器用な力士だ。突っ張って前に出る相撲もあるし、体もひと回り大きくなった。けがが少ないのもいい。鶴竜親方の指導もいいのだろう。よく考えて相撲を取っていると思う。

    新小結で9勝した若元春も立派だ。左四つになったら格上が相手でも互角以上の相撲を取る。部屋には弟の若隆景もいるし、よほどいい稽古をしているのだろう。私の家からも稽古場は近いから、今度見に行ってみようかな。ただ、相撲を見ていて、ちょっとここを直せばというのはある。左四つになったとき、顔が差し手とは逆の方向に向いているので、そこを直せばもっと強くなるだろう。私らが現役のころに言われたのは、あごで相手の首筋あたりを押さえつけるということだった。その体勢で差し手のほうに寄っていけば、もっと楽に勝てるだろう。若元春も有力な次期大関候補と言っていいだろう。兄弟大関も夢ではない。

    琴ノ若、年内には大関とりの足場を築くのではないか

    琴ノ若も初日から4連敗したときはどうなるかと思ったが、相撲内容はそれほど悪かったわけではなかった。しっかり前にも出るし、土俵際もなかなかしぶとい。“坊ちゃん育ち”の割には精神的にもかなりしっかりしている。年内には大関とりの足場くらいは築くのではないだろうか。

    前半戦がよかった大栄翔には優勝した場所の再来も期待したが、途中の3連敗が痛かった。2桁の星を残し、大関候補の1人ではあるが、押し相撲は1つ負けだすと歯車が狂うこともあり、どうしてもいいときと悪いときがある。九州場所で優勝した阿炎も初場所は8勝に終わった。場所中にどこか痛めたのであろう。突っ張れない相撲が何番かあった。やはり連覇というのはなかなか大変なのだ。だから、今は誰が本当に強いのか分からない。しばらくくすぶっていた琴勝峰が、ようやく復活の兆しを見せてくれたが、初場所は久しぶりに積極的な相撲が目立っていた。確かにいいものを持っているが、果たして次の場所でも初場所のような相撲が取れるのか。大器だけに期待したい。

    群雄割拠の時代を経て、若隆景、豊昇龍の両関脇が抜け出そうな感じではあるが、突出したものがない。けががなければ、豊昇龍はチャンスをつかんでいただろうが、案外、波に乗って霧馬山あたりが一気に駆け上がるかもしれない。

    朝乃山、いずれ大関に復帰すると思っている

    朝乃山が十両で14勝した。実力は頭1つも2つも抜けているのは明白だが、幕下での2場所も含め、全勝は難しいのだろうか。初場所の1敗は右四つがっぷりの十分な体勢になりながら、大翔鵬に寄り切られてしまった。入幕すれば、今なら即、優勝候補だろう。ことし中ではないかもしれないが、いずれ大関に復帰すると私は思っている。誰が優勝するか分からない場所もこれだけ続けば、いずれは相撲ファンに飽きられることだろう。朝乃山のような存在が優勝戦線に加わるだけで、場所のおもしろみもグッと増してくるに違いない。
    負け越しはしたが、翠富士は大いに存在感を発揮してくれた。小兵ながら力強い相撲を取る。貴景勝戦は敗れたが、圧巻の相撲だった。先場所も得意な肩透かしを決めているが、私らの現役のころも、こうした個性派力士が決して主役というわけではなかったが、土俵を彩ったものだった。海乃山などは蹴手繰(けたぐ)りの名手で突き落としなんかも強かった。「潜航艇」と言われた岩風は、今にも手をつくんじゃないかというくらいに頭を下げていた。やたらと怪力の持ち主で左を差したら腕をへし折られるんじゃないかと思ったくらいだ。絶対に相手の顔を見ないで下ばかり見て仕切っていた、変わった力士だった。

    照ノ富士、けがの回復に専念してもらいたい
    休場が続いている横綱照ノ富士は、コメントを聞く限り春場所も休場しそうだ。私が現役横綱のころはせいぜい2場所も休んだら、3場所目は気持ち的に居どころがなかったものだった。そもそも休場したら遊べなくなるので、私の気持ちがもたなかった。照ノ富士は中途半端な状態で出るのではなく、けがの回復に徹底して専念してもらいたい。焦ることもないだろう。
    ご当所で綱取りに挑む貴景勝には頑張ってもらいたい。そういえば、貴景勝のような体格の短躯(たんく)でアンコ型の横綱というのも、ここ何10年も見たことがない。もし上がれば、照國や鏡里以来ではないか。相撲人形が綱を締めたような横綱も見てみたい気がする。

    53年前の私の綱取りのときは玉の海がいたので、プレッシャーを感じるよりは、玉の海に負けられないという気持ちのほうが強かった。柏戸関が引退し、大鵬関の次となると自分たちがやるしかないという感じであった。前の場所で優勝した私のほうが条件的にはかなっていたが、玉の海のほうがコンスタントに好成績を挙げて安定感があった。昇進の際は結構、もめたらしいが、玉の海ではなく私のことで審議に時間がかかったらしい。
    双葉山関に匹敵するほどの抜群の安定感と言われた玉の海に対し、私はいいときと悪いときがはっきりしていて、自覚はあったがムラッ気は引退するまで治らなかった。場所の前半で2つも黒星を喫したら、もう気持ちが乗らなかった。10回の優勝のほとんどが先行逃げ切りだったと思うが、もともと細い体だったから、とにかく速攻で相手の陣地で勝負をつけないといけないという相撲ぶりが新弟子時代から染みついていた。だから、相撲に安定感を欠いていたのかもしれない。横綱になって受けて立つ相撲を取ろうと思っても、なかなか勝てずに11勝4敗が4場所も続いたこともあった。

    相撲専門雑誌「NHKG-Media大相撲中継」から

  • 投稿者:匿名

    北の富士氏解説休みらしいが体調わるいねかな?
    舞の海のかいせつなとききたくないよ!
    凄く心配だ!

  • 投稿者:KON

    あ大相撲どすこい研 
    第17回 ただいま急増中!技術の結晶 肩透かし
    BS1
    3/11(土) 17:00~17:50

    テーマは「肩透かし」。相手の肩を抱えるようにして引き倒す技で、決まれば「お見事!」と拍手をわき起こします。
    実は肩透かし、近年、決まり手として急増していることで注目を集めています。
    なぜ決まり手として増えているのか、技をかけるための秘訣はあるのかなどの疑問から、
    想像を超えた肩透かしの真実まで。
    現役力士・翠富士へのインタビューやかつての名手たちへの徹底調査から、肩透かしの魅力に迫ります。

    再放送
    (前回の)大相撲どすこい研 
    第16回・巡業編 
    巡業 大相撲の未来を巡る!
    BS1
    3/11(土) 8:50~9:40

  • 投稿者:KON

    大相撲ダイアリー3月10日

    1945昭和20年のこの日、東京は下町を中心に米軍のB29機によるナパーム弾・焼夷弾による首都爆撃を受け下町一帯は火の海に。
    両国国技館は、幕下力士の郷里らが防護団を結成し命を張ってバケツリレーを夜通し行なって、天皇賜盃が納められている大金庫及び金庫室を水浸しにして、焼失を防いだそうです。

  • 投稿者:KON

    アナザー・ウルフストーリー”5

    連勝の始まった夏場所で23回目の優勝を果たした時点では、記録などまったく意識していなかったという千代の富士。
    むしろこの時は、北の湖と優勝回数が並んで歴代2位タイ(当時)となったため、次の場所で一気に単独2位になってやるという気でいた。
    その後、名古屋場所、秋場所を全勝で終え、39連勝となると、マスコミが大鵬の45連勝の記録を抜けるのではないかと騒ぎ始める。NHKからは九州場所を前に特別番組制作の依頼を受け、「いまさら上がるトシでもあるまい」とこれにOKする。
    本人いわく《初日に勝たないことには番組がスタートできないと思うと、プレッシャーがかかったが、力の出るプレッシャーだった》(著書『負けてたまるか』)。
    初日を無事白星で飾り、連勝も40に乗ると、会場は異様な盛り上がりとなった。こうしてファンやマスコミにあおられる形で闘志を燃やし、六日目に45連勝に並ぶと、これで十分と思って気持ちが楽になったらしい。翌日の花ノ国戦でついに大鵬の記録を抜くと感慨もひとしおであったという。大きな目標だったので達成感があり、こうなると土俵に上がるのが楽しくなった。十一日目には小錦に勝って50連勝の大台に乗る。 この場所は連勝フィーバーに明け暮れ、優勝争いのほうはさほど意識していなかったという。それが十四日目、2敗で追っていた旭富士を破って千秋楽を前に優勝を決めると何だかホッとした。あとから振り返ると、場所前からの張りつめていたものがそこで切れてしまったようだ。
    11月27日の千秋楽、横綱・大乃国に敗れ、連勝は53でストップする。
    世間で期待された双葉山の69連勝へのチャレンジはならず、周囲からは惜しまれたが、《そんな大それたことできるわけないと初めから思っていたせいか「あれで、よかった」と悔いはなかった》と書いているのが(著書『負けてたまるか』)、「遠いところには目標を置かない」千代の富士らしいというべきか。

    それでも彼は、一場所15日制になって初めてとなるはずだった「3場所連続全勝優勝」を逃し、そのうえ、翌年の年明け早々には昭和天皇が崩御し、平成と改元されたため、結果的に昭和最後となったあの一番が黒星になってしまったことを、のちのちまで悔やんだ。著書『綱の力』では次のように省みている。 《やり直していたら、絶対に勝っている。でもそれができないのが相撲。あの一番の反省材料は、他の負けた相撲の10倍以上はあった。
    悔しさはそれ以上だった。 だから、「もっともっとしっかりやらなければいけない」と心の底から反省させられた。 いま思えば、あの負けがあったから、平成に入ってからも頑張れたし、優勝回数をさらに5回も伸ばせたのだと思う。 あの黒星の悔しさが、晩年の千代の富士の原動力になっていたのは間違いない》 こうして千代の富士は後悔と反省のもと奮起しながら平成元年を迎えたが、それは彼にとって波瀾の1年となる。

    (つづく)

  • 投稿者:KON

    “アナザー・ウルフストーリー”4

    千代の富士は 苦手とした相手も結構おり、自伝のひとつ『ウルフと呼ばれた男』では、横綱になってから1989年の秋場所までに千代の富士自身が負けの多い力士11人を挙げている。そこには横綱となった隆の里、双羽黒、大乃国、旭富士のほか、北天佑、朝潮、小錦、太寿山、逆鉾、若島津、巨砲の名が並ぶ。
    このうち隆の里には、横綱昇進以降、6勝11敗と負け越している。横綱になってからの初黒星も隆の里からだった。
    1981年の秋場所二日目のこの取組で、痛めていた左足首をさらに悪化させてしまい、翌日から休場を余儀なくされる。
    休場明けの九州場所では横綱となって初優勝を果たすも、このときも隆の里に敗れ、翌1982昭和57年秋場所までじつに8連敗を喫した。
    著書『綱の力』では当時を振り返り、《原因は自分の相撲に課題があったわけで、負けて研究し、また負けてまた研究し直した。しかし、それ以上に相手は私を研究していたという。
    それではなかなか勝てなかったわけだ》と書いている。 隆の里は、自分が上位にあがるには千代の富士を破らねばならないと思って以来、研究に研究を重ねた。本場所のビデオをテープがすり切れるほど見て、巡業中にもなるべく千代の富士のそばにいて観察し、さらにその物の考え方も知りたくなって趣味嗜好や読む本まで調べあげたという。
    そうやって集めたデータにもとに作戦を練ったのだった(『私はかく闘った』)。その努力のかいあって隆の里は1983昭和58年に念願の横綱となる。
    糖尿病を克服し、当時ヒットしていた朝ドラにちなんで「おしん横綱」と称された隆の里だが、忍耐の人であるとともにじつは頭脳派でもあったのだ。 53連勝で止まった日 千代の富士の全盛期は、力士の大型化が進んだ時代でもあった。先に名前の挙がった小錦、大乃国、双羽黒らの台頭で幕内平均体重は150キロ台に突入、そのなかにあって千代の富士は体重120キロ台(身長は183cm)の小兵として立ち回らなければならなかった。

    ノンフィクションライターの武田葉月氏が歴代の横綱たちから聞き書きした『横綱』(講談社、2013年/講談社文庫、2017年)で、千代の富士はこんなことを語っていた。
    《私みたいに小さな体の力士は、遠いところに夢や目標を置いていてもダメなんです。あまり大きな目標を置いて、できなかったら、ガクッときますからね。 目標をまず身近なところに置いて、それを一つずつクリアしていく。一つクリアしたら、もうちょっと先に目標を置いてみる。
    すると「じゃあ、がんばらなきゃ」という気持ちになる。それができたら、「また先に」。
    だから、階段を一歩しっかり上がったら、今度は力をつけて、また上がるんだっていう、そういうやり方です》
    1988昭和63年当時、双葉山の69連勝に次ぐ歴代2位となる53連勝を達成したときも、そんな気持ちで取組の一番一番にのぞんでいたようだ。

    (つづく)

  • 投稿者:KON

    今朝の読売新聞本紙のスポーツ欄の大相撲特集「相撲論」にて
    「師匠と弟子」がテーマで
    “ガチンコ横綱” 大乃国(現芝田山親方)がロングインタビューに答え、紙面の6段を割いて、“クリーン魁傑”と呼ばれた師匠(花籠親方=元大関魁傑)の教えについて回想しています。
    師匠の番付を抜いても弟子は弟子。
    双羽黒や朝青龍のように、番付で師匠の最高位を抜いた途端に、師匠を師匠と思わない不貞な輩は言語道断! 全人教育についても論じています。

  • 投稿者:KON

    “アナザー・ウルフストーリー”3

    九重親方から将来を期待された千代の富士だが、大きな爆弾も抱えていた。それは肩だ。幕下時代の1973年春場所に左肩を脱臼して以来、ひどいときは寝返りを打っただけでも肩が抜けるほど癖になってしまった。
    医師によれば、普通より肩の骨のかみ合う部分が浅いのに、それを腕力にまかせて大きい相手を振り回すので、肩の臼が耐え切れずに抜けてしまうのだという。 それでも抜けるのは左肩だけだったのが、1979昭和54年の春場所の取組で、それまで何もなかった右肩を脱臼してしまう。
    その瞬間、もう力士生命は終わりだ とさすがに観念したという。医師からは、手術すれば完治はするが、それではどうしても腕の動きが悪くなると言われた。 そこで始めたのが、筋力トレーニングだった。
    もともと筋肉質の体だったので、肩のまわりに丈夫な筋肉の鎧をつけるのが一番いいだろうとの判断である。鉄アレイやバーベルなど器具を使うトレーニングを採り入れるとともに、腕立て伏せも1日500回のノルマを課して継続し、これが一番効果があったらしい。力士らしからぬ筋肉隆々の肉体は、もともと肩の脱臼を克服すべく始めた鍛錬からつくりあげられたものだったのだ。 右腕の大ケガ…横綱時代も11回休場 肩以外のケガにもたびたび泣かされた。
    1975年の秋場所で新入幕を果たすも、すぐに十両に陥落、またやり直せばいいや という気持ちで迎えた九州場所で右腕の筋肉を断裂する大ケガを負う。
    おかげで一時やる気を失い、自暴自棄になり、このあと1978年初場所で幕内に復帰するまで2年もかかった(その間、九重親方=元千代の山が1977年に死去、元横綱・北の富士が九重部屋を引き継いだ)。先述の右肩の脱臼で再び十両に陥落する。
    ケガの頻発は、小さい体なのに大きな相撲を取ろうとすることに根本的な原因があった。
    そこで右肩の脱臼を機に、自分に合った取り口に変えようと努力を重ねた。とことん頑固に稽古をした末、最終的には、相手が攻めてくる前に素早く立ち回って前まわしを取り、一気に攻め込んでいく理にかなった相撲を完成させる。これで将来性がグッと高まった。

    先述の右肩の脱臼は公傷扱いにならなかったので、次の1979年夏場所には大きなサポーターをつけながら三日目から出場し、千秋楽まで9勝をあげ、見事3度目の入幕を果たす。
    自分の相撲を完成させてからは、1980年の九州場所を関脇として迎え、翌年の初場所では横綱・北の湖との優勝決定戦を制し初優勝を決めて大関に昇進、同年7月の名古屋場所での2度目の優勝により、ついに横綱にまで昇り詰めた。 それでも脱臼の恐怖はつきまとい、横綱になってからもケガで11回休場している(うち全休は6回)。そのたびにしっかりと静養して、体を治すことに専念した。完治しない状態で相撲を取っていたら、さらにケガが悪化し、致命傷になりかねないし、横綱という立場からして惨めな相撲を取ることは許されない。ゆえに完全に治すまでは相撲は取らない、というのが千代の富士の信念であった(『綱の力』)。 休場明けの優勝はじつに6回を数える。
    「休場明けの千代の富士は強い」と呼ばれた由縁である。1988昭和63年の53連勝も、左肩脱臼で全休後の夏場所七日目の花乃湖戦から始まった。 「6勝11敗」の天敵 全盛期の千代の富士を、子供のときにリアルタイムで見ていた筆者は、当時の角界は彼の独擅場、まさに「一強」だったとばかり思い込んでいたのだが、今回、改めて調べてみると、必ずしもそうではなかったことに気づかされた。

    (つづく)

  • 投稿者:KON

    アナザー・ウルフストーリー2”

    千代の富士本人は最初は「相撲は好きじゃない」と断っていたが、親方の「飛行機に乗せてやる」の一言で心が動く。飛行機などのプラモデルづくりに夢中になっていただけに、その本物に乗せてもらえると聞いて胸が躍った。
    漁師だった父も反対していたものの、親方から「中学を卒業するまで東京で私に預けてくれませんか。それで見込みがなければあきらめます。見込みがあればいっぺん帰して、改めてお願いに来ます」と説得され、ついに折れた。
    こうして憧れの飛行機で上京し、新弟子検査に合格してその年の秋場所で本名の「秋元」で初土俵を踏む。四股名はこのあと「大秋元」を経て、翌1971年の初場所に際し、九重親方が「千代の富士」とつけてくれた。親方の現役時代の四股名である千代の山と、前出の横綱・北の富士からそれぞれ名前を取ったのである(ただ、自伝ではどれも触れられていないが、「富」の字は当初は頭に点のない「冨」を用い、1975年の初場所より改めた)。
    最高の四股名をつけてもらったものの、本人にはまだ力士になるつもりはなく、中学を卒業したら帰郷して地元の高校で陸上をやりたいとひそかに思っていた。卒業が翌月に迫ると、意を決して親方に、約束どおり北海道に帰してほしいと伝える。すると親方はあわてて止め、おかみさんとともに説得にかかった。
    それでも千代の富士は「約束が違う」と頑なになり、抵抗のためしばらくだんまりを決め込む。これに手を焼いた親方はついに両親に連絡をとり、地元の関係者たちとも話し合ってもらい、そのうえで後日、彼を呼んで実家の父親と電話で話してもらう。
    父から高校に行きたいのだろうと図星を突かれると、千代の富士は大きくうなずいていた。父を通じて彼の思いを理解した親方は、それなら東京の高校に行けばいいと言ってくれた。
    著書『負けてたまるか』で彼は、このときの親方を振り返り、《一度、北海道へ帰してしまったら再び相撲界に戻ってこない、と必死だったのだろう。今、思えば「引き留めてもらって」本当にいくら感謝しても、亡き先代九重親方(元横綱千代の山)には頭が上がらない》と書いている。

    こうして千代の富士は、明治大学付属中野高校に入れてもらうのだが、相撲との両立がままならず、けっきょく中退する。相撲1本で行かせてほしいと申し出たところ、親方は涙を流して「やっと相撲取りになったな。これからだぞ」と喜んでくれたという(『綱の力』)。
    現代の感覚からすれば、九重親方は一見本人の意思を尊重したようでいて、何としてでも力士にしようと、あの手この手で囲い込んだようにも思える。
    1972年に日本相撲協会は、前年の文部省(現・文部科学省)の通達を受け、「中学生は力士として採用しない」と決めたとはいえ、たとえもう少し年上の少年が相手でも、いま同じようなやり方で慰留したら、問題になりそうである。もちろん、親方が引き留めたのは、それだけ千代の富士が将来を嘱望されていたということであるが。

    (つづく)

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