大相撲のコメント部屋

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応援コメント一覧 全2,861件

  1. #144952 | KON |
    追悼 北の富士さんヒストリーを もう一度 34 ◇意外に⁉️ 安定していた “横綱北の富士” 北の富士さんの金星配給は 横綱在位27場所で17個、ひと場所平均0.63個は 双葉山や初代若乃花の場所平均金星配給数よりも少なく、 横綱在位時の平幕力士との対戦通算137番で27敗ですから金星配給率としては 歴代6番目の低さ 0.124 平幕との対戦100番以上の横綱として、北の富士さんよりも金星配給率が低い横綱は 当時は双葉山・大鵬だけ。北の富士さん以降だと 千代の富士・朝青龍・白鵬の5人しかいない。 “土俵の鬼”初代若乃花や “名人横綱”栃錦も、“天才”輪島や “憎たらしいほど強かった ” 北の湖も、“平成の大横綱” 貴乃花や貴乃花のライバルだった曙・武蔵丸ら「ガチンコ相撲を貫いての平成の大相撲ブーム」を築いた強者(つわもの)トリオ……も北の富士さんの金星配給率(=与金星率)の低さには及びません。 いつも実況解説にて ご自身の記録については 非常に謙虚な北の富士さんでしたが (当時)双葉山・大鵬に次ぐ優勝回数・15戦全勝優勝回数の史上3位タイのみならず たいへんな記録の数々の持ち主だったのです。 #35 へつづく
  2. #144951 | KON |
    北の富士さんヒストリーを もう一度 33 ◇世代交代を確認しての突如の引退 貴ノ花との熱戦の翌年1973昭和48年、 九月場所は 双葉山・大鵬に並ぶ史上最多の3回目の15戦全勝優勝を果たして完全復活をアピールした北の富士さんでしたが、ひとり(独り)横綱の8場所中で、後に初の学士横綱となる“天才”輪島大士(同5月場所)とハワイから身を投じてきた高見山大五郎(同7月場所)が初優勝を果たし、“プリンス”貴ノ花と “天才”輪島が同時に大関昇進(同9月場所後)するなど、角界の世代交代を実感する結果となりました。 1973年1月場所後に琴櫻が横綱へ昇進して 二人横綱となると、三月場所には14勝1敗で双葉山・大鵬に次ぎ常ノ花に並ぶ史上3位タイの10度目の優勝を果たし、七月場所にも14勝1敗で琴櫻と決定戦を行なうなど、健在ぶりを印象づけた北の富士さんではありましたが、それ以後の1年や間は 千秋楽まで出場した皆勤場所が1場所だけと急速に衰えていき、特に1974年三月場所前の稽古で右ひざを痛めたのが致命傷となった。 盟友玉の海が突然の病死してしまったあと、折れそうになる気持ちを奮い立たせてきた北の富士さんでしたが、右膝の大怪我とともに気力も萎えてしまい、3場所連続休場後に迎えた1974年七月場所で初日に 前頭筆頭の旭國斗雄に敗れ通算17個目の金星配給、ニ日目に張出関脇大受久晃も屈して連敗、大受に敗れた結びの一番から わずか1時間後に「体力の限界」を理由にして親方にも相談せずに、あっけなく現役引退を発表してしまいました。 翌日に引退届を提出した直後の会見では 「昨夜はよく眠れましたよ。今日から相撲がないので思い切り飲んだ」と語ったが、引退が大々的に報道されて自分がさっさと引退したことを初めて強く自覚し、会見後の夜は眠れなかったという。 なお、1942昭和17年3月生まれの北の富士さんが引退したことにより、戦前・戦中生まれの横綱経験者は全員現役を引退した……ということになりました。 #34へ つづく
  3. #144950 | KON |
    貴ノ花との因縁2の続編 その同年3月場所七日目、貴ノ花との結びの一番では、北の富士が左足で外掛けをかけながら貴ノ花を土俵外へ追い詰めたが、貴ノ花がくるりと体を捻りながら うっちゃり気味にこらえた為、北の富士の足も“送り足”のように土俵を踏み越しながら土俵際で両者がほぼ同時に倒れ込み、またもや物言いが付く大相撲となった。 北の富士vs貴ノ花戦の差し違いの責任を取って退職してしまった 25代 木村庄之助に代わって 立行司を務めていた 22代 式守伊之助の軍配は 北の富士に挙がりましたが、またもや “物言い”の協議によって北の富士の左足が僅かに先に出ていたと判定され、北の富士の勇み足! 行司差し違えで貴ノ花の白星となりました。 この一番は 直前場所でも北の富士のつき手・かばい手を巡って揉めに揉めていたので、同じ顔合わせで 再び立行司が軍配を差し違えてしまう珍事となった。 この一番で差し違いをしてしまった式守伊之助も打ち出し後に理事長室に赴き、退職願いを提出したので、慌てた理事長が懸命に慰留したそうです。 #33へつづく
  4. #144949 | KON |
    追悼 北の富士さんヒストリー をもう一度 #32 ◇プリンス貴ノ花との因縁2 3連覇の期待がかかり、優勝争いの本命とみられていた1972年1月場所では、初日にいきなり大関・初代琴櫻との取組が組まれて敗れると、八日目の関脇・貴ノ花戦では、北の富士の つき手? かばい手?、貴ノ花が生き体か?死に体なのか?で大きな話題となった。 25代木村庄之助は北の富士の付いた手が「つき手」と見て貴ノ花に軍配を上げたが、物言いによって北の富士の勝ちとなった(決まり手は浴びせ倒し)。 この時「つき手」を主張したものの受け入れられず、差し違えとされた立行司25代木村庄之助は翌日から千秋楽まで謹慎となり、憤懣やるかたない庄之助は三月場所前には廃業してしまうという事態となった。 しかし、後年2005年に貴ノ花が亡くなった際、この取組が思い出として多く取り上げられるようになると、北の富士は「あの大相撲は、本当は俺の負け。俺の手は『かばい手』では無く『つき手』で、しかも貴ノ花は完全な『生き体』だった。当時は意地でも認めたくなかったが今は認める。生涯に残る相撲」と涙ながらに振り返っていました。 貴ノ花戦の後、十日目まで6勝4敗、さらに十二日目・十三日目と連敗する乱調ぶりで、十四日目より胃炎・高血圧などの体調不良で途中休場となった(7勝7敗1休)。 これにより、1967年9月場所 - 1971年11月場所まで続いた通算(幕内)連続勝ち越しは26場所で止まってしまい、当時史上1位だった玉の海の27場所連続に惜しくも届かなかった。 (この連続勝ち越し記録は後に北の湖や武蔵丸らに抜かれた。) 翌3月場所も序盤から取りこぼしが続いて早々に優勝争いから脱落し、勝ち越したものの9勝6敗に終わる。
  5. #144946 | KON |
    追悼 北の富士さんヒストリー を もう一度 #31 ◆サーフィン 盟友 玉の海急死後、1人横綱を8場所務めるがライバル急死が精神的に大きな痛手となり休場が増えるようになりました。 1973年5月夏場所は負けが先行し八日目までで3勝5敗、途中休場しようとしたが、特にどこが病気や怪我というわけではない。 休場するには 医師の診断書が必要なのですが、極度の不振とはいえ身体に悪いところはどこにも見当たらない横綱北の富士。 相撲診療所で医師に診て貰ったが検査の結果は どこも異常なし。困った医師はそこで「夜は眠れるか?」と問い、北の富士は調子が上がらない悩みから「最近寝付きが悪い」と否定したので、「ならば不眠症だな」となって、医師がようやく “不眠症”の診断書を書いてくれた為、その足で協会に休場届けを提出した北の富士さん。 その届けが無事受理されると急ぎ足で部屋へ戻って師匠(九重親方=元千代の山)へ報告。 部屋での夕飯(ちゃんこ鍋)もそこそこに、タクシーを呼び銀座へ手掛けてしまいました。 “豪放磊落”というか “ノー天気”というか 場所を途中休場した横綱としては 甚だ無責任な北の富士さんでした。 さらに北の富士さんは 夏場所後にハワイへ飛び、気分転換の休暇をとり 現地の美女たちと歓談したりサーフィンに興じていた写真が週刊誌や新聞に載り、その記事を見た協会幹部が激怒。即刻帰国するよう指令が出て、戻ってきた北の富士さんは協会に呼びつけられ厳重注意処分を科されてしまいました。 #32 へ つづく
  6. #144938 | KON |
    追悼 北の富士さんヒストリー をもう一度 #30 ◆プリンス貴ノ花との“因縁”  今もYouTubeで映像を視聴することができますが、1972昭和47年初場所の関脇貴ノ花戦、外掛けも上手投げを返されて右手が先につく。軍配は貴ノ花も物言いで長い長い協議の末 「かばい手」となり、“行司差し違え”にて北の富士が「浴びせ倒し」の勝ち。 帰りは蔵前国技館から車で出て来たところ怒り収まらない貴ノ花ファンに車を蹴られてボコボコにされる。 翌春場所では土俵際で得意の外掛けを繰り出し浴びせ倒そうとしあが うっちゃられ、軍配は北の富士有利と見たがまたも物言い。 再び長い協議となりました。 〖私の私見では、前場所が貴ノ花の「うっちゃり」が有効。この場所は北の富士の「寄り倒し」か 「同体につち取り直し」とみました。 結果 前場所の借りを返すかのように「勇み足」で貴ノ花の勝ちに。  ・・・ 即、日本相撲協会へその旨、お手紙を書きました。『先場所が間違えてた!とは言えないから辻褄を合わせたのですね』と付け加えて。〗 後年、北の富士さんは「あれはね “かばい手”っといっても自分の顔をかばったんだよ。顔なんか擦りむいたら銀座に行けない!っていうか 対戦相手を恨む銀座の女性たちが暴動を起こして二子山部屋が襲われる⁉️」「2度目の物言いは かばい足にしてほしかった」とテレビで吐露してました。 プリンス貴ノ花の死後、息子の貴乃花とのテレビ対談などで同様のことを貴乃花に伝えてました。 実際、55歳で亡くなったプリンス貴ノ花の葬儀にて 祭壇に手を合わせながら『あの時は あんたが勝ってました。』と遺影に向かって小声で語ったそうです。 #31へ つづく
  7. #144934 | KON |
    今日のスポーツ紙各紙で 年明け1月の初場所の新番付が克明に載っています。 特に日刊スポーツ・スポニチでは幕内力士ごとの「持ち給金=別名:力士褒賞金」(これは本場所ごとに現金で本人に手渡されるもので、番付ごとの基本持ち給金に加えて、特別加算として 幕内で勝ち越すと勝ち越した分が0.5円、10勝5敗なら5×0.5で2.5円加算され、金星獲得すると金星1勝につき100円、幕内優勝すると30円で 15戦全勝優勝なら50円が自身の持ち給金に加算され現役引退まで本場所ごとに支給され続け減ることはありません。ただし十両へ陥落すると不支給) 0.5円だとか 優勝して30円だとか 時代錯誤な金額にみえますが、実際には この持ち給金を現在の金銭価値にあわせて(下記のように)数千倍したものが支払われてます。 1960~1969年まで:1,000倍 1970年-1984年:1,500倍 1985年-1997年:2,500倍 1998年-現在(2024年):4,000倍 休場の場合は不支給。途中休場した場合は出場日数を日割りして計算。 北の富士さんが横綱だった頃(昭和40年代)には 1000~1500倍でしたから 幕内優勝10回で全勝優勝3回だった北の富士さんは横綱としての晩年には、優勝の分だけで 30円+7+50円×3で360円の特別加算、これを1500倍した54万円が横綱としての基本持ち給金(150円)に加算されて毎場所キャッシュで貰ってたことになります。 サンスポは力士報奨金については余り詳しく載ってませんが、他紙のような十両力士まで……ではなく序ノ口力士までの全力士について載っています。 コンビニででもお求めください。
  8. #144929 | KON |
    北の富士さんのお別れ会 歌手、松山千春さん(69)が22日、FM NACK5「松山千春 ON THE RADIO」(日曜後9・0)に生出演。 今月18日に東京・墨田区の八角部屋で開かれた 大相撲の元横綱で解説者としても人気があり、11月12日に82歳で死去した北の富士勝昭(本名・竹沢勝昭)さんをしのぶ会に出席したことを報告。 松山千春さんは「私、勝昭のお別れ会へ行って帰ってきたら風邪をひいてました。要はよ こっち、札幌でるときは寒かったんだよ。俺は分厚いコートを着てですね、張り切って行ったわけですよ。そしたら東京、暖かかったんですよ。汗だくになりながらですね、あれが悪かったんだと思いますけどね」と明かしていました。
  9. #144928 | KON |
    追悼 北の富士さんヒストリーを もう一度 #29 ◇横綱北の富士 大関所要21場所での横綱昇進は 当時の大相撲史上最長記録という “スロー出世”。 大関在位21場所で最も遅い横綱昇進……という意外な感じですが 昭和33年に年6場所制が確立されるまでは 年5場所、年4場所、年3場所と 色々と本場所改革が繰り返されてましたし、それ以前の昭和22年までは年2場所制でしたので 大関在位21場所というと7年~10年も大関で過ごしてこから横綱になる……ということになるのでした。 そして、北の富士さん 横綱審議会の一部委員の懸念をよそに 横綱2場所目の1970昭和45年夏場所、つづく名古屋場所と 連続優勝して、周囲の心配を吹き飛ばした北の富士さん。 しかし ここでまたもや悪い虫。 ちょっと気を抜くと朝稽古よりも夜の活動に重点を置くようになり成績が不安定。 すぐに 4場所連続11勝4敗の成績に終わり当然優勝には絡まない。 11勝ばかりなので “イレブン横綱”とマスコミにアダ名されてしまいました。 しかし “大横綱”大鵬の引退も刺激になり 1971昭和46年夏には全勝優勝しました。 最終章 #30へ つづく
  10. #144918 | KON |
    あ追悼 北の富士さんヒストリー をもう一度 28 ◇横綱同時昇進2 まだ煩い(うるさい)横綱審議委員会もなく「2場所連続優勝またはそれに準じる」もなかった戦前の安藝ノ海と照國はともかく(ちなみに2人とも優勝はなしで昇進、、この前後は 横綱・双葉山が4場所連続優勝中だったし、年間2場所制のもとですから仕方ない)、 柏・鵬の場合は大鵬が連続優勝で柏戸は優勝同点での昇進、 北・玉は直前3場所を玉ノ海(玉乃島)、北の富士、北の富士(玉乃島と同点)の順で優勝して同時昇進。 「それに準じる」が存分に活用されていました。 柏鵬の柏戸も大鵬が優勝回数記録更新し続けるなか、怪我に苦しみながらも千秋楽の大鵬戦では毎場所相撲ファンから大いに期待され「柔の大鵬vs剛の柏戸」の熱戦を展開し、優勝回数32回vs5回 と大きな差をつけられながら直接の対戦成績は 柏戸の糖尿病が悪化した晩年の5戦で5連敗するまでは 16勝ー16勝と拮抗してました。 また連覇した北の富士と同時昇進した玉の海は新横綱からの10場所で130勝20敗・勝率.866、休場0、与金星も0。 優勝4回(うち全勝優勝1回) そして 準優勝5回! 在位10場所のうち9場所で優勝か準優勝という絶対的安定感でした。 この“連続10場所での準優勝以上の確率9割”という記録は、貴乃花と並び、雷電為右衛門や谷風梶之助に次ぐものであり 双葉山や大鵬・北の湖や千代の富士を超える安定感でした。 一方、北の富士は、同じ10場所で 122勝28敗・勝率.813、与金星5。 全勝優勝2回を含む優勝4回・準優勝1回。 特に横綱昇進9場所目には、平幕に敗れる金星配給こそなかったものの、初日に小結高見山にうっちゃられ、五日目には小結貴ノ花に吊りだされて2敗目。関脇長谷川にも吊りだされて腰高が露呈。 さらに前の山・大麒麟・清國の3大関にも四つ相撲から寄り切られて全敗、千秋楽には玉の海にもガップリ四つから寄り切られて ついに7敗。 8勝7敗で場所を終えました。 いい時は全勝優勝するのにムラっ気が激しい北の富士。 やはり当時の横綱審議会の目は正しく、安定感ては玉の海が上でした。 #29 へ つづく

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