大相撲のコメント部屋

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応援コメント一覧 全2,555件

  1. #144806 | KON |
    追悼 北の富士さんヒストリー をもう一度 21 ◆盟友とともに勘違いした “貫禄大関” 大関に昇進した1966年11月場所からの1年間(6場所)で4度も9勝6敗の成績だったため「クンロク大関」と呼ばれていた(当時)玉乃島。 ある日、玉の海は北の富士に対して「北さん、ぼく、最近、"カンロク大関"って言われています」と「クンロク大関」と呼ばれていることに気付いていない様子だった。 そしてひと場所早く大関となっていた北の富士さんも大関昇進して3場所は二桁勝利し、4場所目には14勝して初優勝を遂げたが、後援会の祝賀会へのお呼ばれに皆勤して飲みまくり遊び呆けていた。 優勝の翌場所なので綱獲り場所のはずで、周囲も期待していたのに、まさかの5勝10敗と二桁の黒星、翌場所も7勝8敗と連続負け越し。 今なら大関陥落となるところですが、この当時は「3場所連続負け越した場合は大関陥落」という ゆるーい制度だった為、関脇への陥落は免れた北の富士さん。 なので、ひと場所負け越しても気にせず、遊び呆けて稽古もせずに酔って帰宅しては布団にバタンキューの日々。 足腰の筋肉も一気に落ち、連合稽古でもすぐに息があがるほどスタミナ不足、本場所でそうそう勝てるわけもなかった。 2度目の優勝など遠い夢となり1969昭和44年3月場所から3場所連続の9勝6敗で、スポーツ紙などでは北の富士さんにも“クンロク大関”のあだ名がついた。 この頃のことを北の富士さんが50年後に回想し、 2022年3月場所初日のNHK大相撲中継で「貫禄と間違えてね、『とうとう俺たちも貫禄だな』」と同様の勘違いをしていたことを明かしました。 つづく
  2. #144804 | KON |
    追悼 北の富士さんヒストリー をもう一度 20 ◆改名裏話  ところで、春場所で初優勝した北の富士さんですが、口うるさい兄弟子たちがいない新生九重部屋という自由な環境のため、大阪での春場所を終え東京へ戻ると、有頂天で連日連夜の銀座通い。 稽古不足丸出しで、続く夏場所・名古屋場所を連続負け越し。 秋に北の富士と改名してなんとか カド番を脱出しました。 “どうせ 大関どまり”と観念していた北の富士さん。 翌年の1968年春には「引退する前に せめて外国に行ってみたい」という 力士としては やや不謹慎な理由で四股名を「勝明」から「洋行」に改名した北の富士さん。 そんな軽薄な思いつきでの改名も、夏には翻意して本名の勝昭に改名し直しました。 実は、名大関貴ノ花関も 師匠で実兄の初代若乃花の験担ぎにより、北の富士さんに負けず劣らず……というか 「花田満」→「貴ノ花満」→「貴ノ花利章」→「貴ノ花利彰」→「貴ノ花満郎」→「貴ノ花健士」→「貴乃花健士」→「貴ノ花利彰」 北の富士さんと同じで 細かく 7度も改名してました。 (北の富士さんヒストリー #8 参照) この大関貴ノ花と北の富士さんは、後述しますが、数々の名勝負を繰り広げ、特に本場所の中日(なかび)八日目を中心に日曜日の大相撲ファンが楽しみにする“ゴールデン・カード”となりました。 #21へ つづく
  3. #144797 | 匿名 |
    そんな千代の富士さんマゲに別れを告げたあとに出たバラエティ番組での曲当てコーナーでイントロ相手に苦戦も松山千春の曲だとわかった途端に「あ、千春だ」ってさ。道産子同士はメチャクチャ義理堅いんですね。
  4. #144796 | KON |
    追悼 北の富士さんヒストリーを もう一度 19 ◆酒席での楽しい遊び方 話は前後しますが 北の富士さんが亡くなった後、同じ北海道生まれで歌手の松山千春さんが北海道内のラジオで語ってましたが 「九州場所は本当によく一緒になったな。 俺は ちょうどコンサートやってる時だから博多で一緒になると中洲で飲んでたなぁ、親方と千代の富士と俺と三人で。 ここだけの話だからな、これは俺たちしか知らないと思うんだけど」と前置きした上で、「ホステスさんのいる中洲のナイトクラブで酔っぱらってくると親方(北の富士さん)がね、ホステスさんのハイヒールにビールを入れるんだよ、いきなり、うん。 そしてな『じゃあ、戴くから』って、そのハイヒールに入ったビールをゴクゴクと一気に飲み干して『はぁ、うまかった。ありがとう』って言って新しい靴をまた買ってあげるんだけどさ、それが おっかしくて たまらないんだよ」と懐しんでいた千春さんでした。 つづく
  5. #144791 | KON |
    追悼 北の富士さんヒストリーを もう一度 18 ◆師匠九重(元横綱千代の山)の教え 千代の山は 無口が多い角界では異例の “しゃべり好き” で知られていて、出羽海時代でも北の富士は 給仕をしながら毎日2時間ほど千代の山の話を聞くことがあったが 北の富士は「いやね、親方は話が面白いから、2時間ぐらいあっという間」と振り返っていました。 北の富士さんは 郷土の英雄である千代の山関から「酒の飲み方、女性との付き合い方、贔屓筋との付き合い方など」を色々と教わったが、相撲番記者から “どんな話だったんですか?” と訊かれた北の富士さん曰く 「あのね、記事だとか本だとか……文字にして世の中に出せないような艶話が多かったよ」と笑いながら語っていました。 つまり、北の富士さんの「酒・女性」にまつわる豪快な遊びっぷりは千代の山直伝だったことがわかりました。 ただし、サッポロビール園で大ジョッキ30杯も飲んで酔っぱらわなかった(当時の角界では指折りの)酒豪 千代の山とは異なり、北の富士さんは一般人が驚くような暴飲深酒はせず、その分、女性たちを楽しませる会話に満ちた宴 のほうに気持ちが向いていたそうでした。 #19へ つづく
  6. #144786 | KON |
    追悼 北の富士さんヒストリー をもう一度 17 ◆破門 話を戻すと 北の富士さんが十両での全勝優勝から幕内へ昇進→新入幕で13勝して “天狗”になっていた頃、出羽海部屋では騒動が起き始めていました。  1963昭和38年に横綱佐田の山が師匠8代出羽海(元前頭筆頭の出羽ノ花)の婿養子となったことで、自分が出羽ノ海後継の可能性が消滅したと確信した部屋付き親方の年寄九重(元千代の山)は 1967昭和42年1月に出羽海部屋からの独立を宣言。 出羽海親方(8代出羽海・元出羽ノ花)の制止を振り切り、同郷の北の富士を部屋頭に10人の力士を連れて独立しました。 しかし、出羽海一門からは破門となってしまいました。 大相撲では当時、どこの一門にも所属してないとなんの活動もできない。 困った九重(元千代の山)が四代高砂親方(元横綱前田山)に頭を下げて高砂一門に編入。 晴れて高砂一門の九重部屋となった春場所では 部屋頭となった北の富士が、突っ張りから得意の左四つに組み止めて寄り切る磐石な相撲で初日から白星を重ね、七日目の相手 “くせ者” 麒麟児には土俵際でうっちゃられそうになりながらも“必殺技”外掛けで倒し、終盤後半戦も勝ち進み12戦全勝、1差で追ってきた横綱大鵬には すくい投げで敗れたものの、十四日目には出羽海部屋時代の兄弟子だった佐田の山に取り直しの末に勝利し、千秋楽には横綱柏戸の電車道に劣勢となりましたが、得意の“黄金の引き足”をみせ「肩透かし」で下して 14勝1敗、初の幕内優勝となりました。 ともに移籍した弟弟子の松前山が十両優勝し、新生 九重部屋は、「我が世の春」と男泣きに暮れる九重親方の横で 対照的に 笑顔満面の北の富士を中心としてタニマチさんたちとともに歓喜に沸きました。 つづく
  7. #144780 | KON |
    追悼 北の富士さんヒストリーを もう一度 16 玉の海の死因 虫垂炎手術後に併発した急性冠症候群及び右肺動脈幹血栓症(現在の言い方では 術後の肺血栓)だったことが判明、特に右肺の主管肺動脈には約5cmの血の塊が詰まっていたという。 春場所後の頃から日に日に激痛となっていく盲腸の痛みを我慢してしまった玉の海。 二所一門の恩師大鵬関の引退相撲で太刀持ちをすることを優先し、無理して本場所に出場し続けていた玉の海。 横綱昇進してからの10場所、1度も休場のないまま現役死してしまったのでした。 巡業先の岐阜羽島で突然の訃報を記者から聞いた北の富士さん。 最大のライバルかつ親友だった北の富士さんは、「玉の海関が亡くなりましたよ」との一報を聞いた時、最初は「解説の玉ノ海さん(玉ノ海梅吉さん)が亡くなったのか?」と思い、付け人に確認を取らせた。 関係者が「現役横綱の玉の海関です」と伝えても北の富士さんは全く信じようとせず、「ふざけるのもいい加減にしろ!」と激怒したという。 しかしその後、亡くなった人物が間違いなく親友の横綱・玉の海関本人であるという事実が判った時、北の富士さんは「むごい……。島ちゃんがあまりにも可哀想だ……。」と、その場で人目も はばからず しばし号泣しました。 つづく
  8. #144779 | KON |
    追悼 北の富士さんヒストリー15 補足 お互いを『北さん』「玉ちゃん」と呼び合う二人の対戦はいつも熱戦、 すでに右四つ左上手の型を完成させ強靭な足腰で吊り上げることも多かった(重心の低い)玉の海関に対して 185cmと玉の海より7cmも高い上背を活かしての うわ突っ張りから左を差し勝っての左四つとなるのことが多く 右上手を取るなり休まず前に出ながらの上手投げや外掛けでの速攻が得意な北の富士が左四つに持ち込む相撲が多く、土俵際のうっちゃりを警戒し左四つから慎重に両回しを引き付けて寄る北の富士、しかし脚の長い北の富士の腰高を利用し吊り上げて自身の左へ振って うっちゃろうとする玉の海。 手に汗握る熱戦を毎場所のように繰り広げ、勝負がつくと 土俵の外の “蛇の目” のあたりでお互い顔を見合せ『いい相撲だったな』と言わんばかりの目配せと力を出し切った満足感からの二人の笑顔が印象的でした。→(今でもYouTubeで視聴可) 結果、関取(十両以上)になって以降の二人の対戦成績は23勝 対 23勝。 そして、玉の海関が27歳で急逝、文字通り“好敵手との対戦”は突如終焉となってしまいました。
  9. #144778 | KON |
    追悼 北の富士さんヒストリーを もう一度 15 ◆盟友玉乃島との切磋琢磨 後に同時横綱昇進した玉乃島(横綱昇進後は改名して玉の海)とは本当に良きライバルでした。 舞の海さんが回想するところによると 「相撲界に入って玉乃島という強い力士がいると噂を聞いてたらしいんですよ。三段目ぐらいのときに初めて見た時に『なんだ、大したことないや』って思ったらしいんです。 そうしたら玉乃島関も『北の富士さんが強い、有望だ』と聞き、同じことを玉の海関も思ったらしいです。そして実際に相撲を見て『大したことないじゃないか』ってお互いに思ってたみたいです」と明かしました。 “北・玉”二人の対戦は 十両時代は玉乃島関が2勝0敗。入幕してから大関へ上がるまでの期間も玉乃島関の7勝5敗と玉乃島関が優勢でしたが、 北の富士さんが大関へ昇進してから(翌場所に玉乃島関も大関昇進)は北の富士関の12勝10敗。 そして二人同時に横綱昇進して以降、北の富士関が6勝、玉乃島改め玉の海関が4勝でした。 つづく
  10. #144770 | 匿名 |
    TVer見てましたが出川哲朗さんが電動バイクで道南を旅してたら千代の富士の実姉との出会いのシーンがありました。さすが身体つき頑丈そうに見えましたね。さらに千代の山千代の富士記念館もオンエア。千代の富士のマゲに止めバサミを入れる北の富士さんの写真が飾られてましたね。今ごろ3人の横綱で酒と松前漬で賑わってるんじゃないかな。

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