迷彩が台無しなんじゃ… なぜ零戦に「黄色い帯」が目立つように描かれているのか?キッカケは“本土初空襲”での苦い戦訓

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日本軍の戦闘機・爆撃機などは主翼前端に目立つ黄色のラインが塗装されています。機体の迷彩効果を台無しにしかねない派手なカラーリングは、なぜ終戦まで続いたのでしょうか。

誤射を防ぐ「敵味方識別帯」のはじまり

 零戦や隼のような旧日本軍の戦闘機を写真や模型で見ると、主翼の前側が鮮やかな黄色の帯で塗られているのに気付きます。機体そのものは全体的に、空や海、あるいはジャングルなど、戦場の環境に溶け込むための迷彩塗装を選んでいるのに、なぜ正面から最も目立つ位置に、派手な黄色の帯を描くのでしょうか。

 この黄色い帯の正体は「敵味方識別帯」と呼ばれる、公式のマーキングです。戦闘機の性能が飛躍的に向上した太平洋戦争当時、空中戦は高速化し、瞬時に敵味方を判断しなければならなくなりました。こうしたなかで、味方同士の誤射を防ぐために採用された配色の工夫なのです。

 太平洋戦争が始まった1941年12月の時点で、日本軍の陸海軍航空隊の戦闘機には、この黄色い帯は描かれていませんでした。機体は暗めの灰色や濃緑色が主体で、所属や国籍を示す主な標識は、胴体側面や主翼に描かれた日の丸のみでした。

開戦時にはなかった識別帯。いつから塗装されたのか?

 開戦当初、空中戦における敵味方識別は、パイロットの目視に頼っていました。しかし機体側面や主翼上下にある日の丸は、正面から直進してくる機体同士では見分けにくい欠点がありました。

 特に開戦直後のマレー半島やビルマの戦いでは、陸軍の飛行第59戦隊や第64戦隊(いわゆる加藤隼戦闘隊)の一式戦闘機「隼」と、海軍航空隊の零戦が同一空域での作戦中に、相互誤認や識別に問題が生じた例が報告されています。

 それでも、全般的に楽勝ムードの中で、連合軍の有力な戦闘機と遭遇する機会も少なかったため、よくあるヒヤリハットとして処理されました。軍を動かすほどの問題にはならなかったのです。

 事態を急変させたのは、1942年4月18日に発生した「ドーリットル空襲」でした。日本近海に忍び寄った空母「ホーネット」から米陸軍のB-25爆撃機を発進させて、日本本土を空襲するという、アメリカ軍の奇襲作戦です。

 この時、茨城県の水戸上空へ侵入してきたB-25爆撃機に対し、陸軍の九七式戦闘機が迎撃に上がりましたが、正面から接近するB-25の機影を友軍の九九式双発軽爆撃機と誤認してしまいます。正面から向かい合う段階では日の丸が見えず、ようやく米軍機であると気付いたときは、迎撃の機会を失っていたのです。爆撃目標となった横須賀でも、超低空で侵入する敵機に対して、敵味方の判別に手間取り、初動対応に重大な遅れが生じました。

ホントに効果はあったのか?

 ドーリットル空襲における迎撃失敗の苦い経験から、同年9月15日、陸軍と海軍の共同通達として「軍用機味方識別に関する海陸軍中央協定」が定められました。これにより、日本軍の全運用機に対して、左右の主翼前縁の内側に「黄橙色(おうとうしょく)」の帯を塗装することが公式に義務付けられたのです。

 この識別帯の導入がどのような効果を発揮したのか。残念ながら、日本軍では対空誤射の発生率などの統計データを収集していないので、数値で追うことはできません。また、大戦後半の防空戦でも、天候不良や射手の混乱による味方機への誤射事故は発生していました。

 現場のパイロットや整備兵からは「視認性が良すぎて敵に先に見つかってしまう」「せっかくの迷彩効果が台無しだ」といった不満の声も上がりました。実際、米海軍情報局が作成した識別マニュアルでも、日本軍戦闘機の正面方向からの色彩の特徴として、「主翼前縁の黄色の帯」が明示されていました。

 それでも、目視に頼る空中戦において、一目で味方機と識別できる最低限の標識として、識別帯は終戦まで運用され続けました。それは、味方の誤射によって貴重な機体や搭乗員を失うリスクを回避するメリットのほうが上回ったからと言えるでしょう。