よくある駅の跨線橋…じゃない!? 足元に鎮座する「ナゾ台座」は山の向こうを目指した線路の痕跡だった

生保業界に起こるある変化とは?

JR東三条駅の構内に、不自然な形でホームが残されています。実はこれ、かつて使われていた弥彦線のホームでした。高架化と一部区間の廃止という歴史に翻弄された、その痕跡を観察します。

不自然な台座がある跨線橋、その正体は

 JR信越本線と弥彦線が乗り入れる東三条駅(新潟県三条市)。弥彦線のほとんどが使用する行き止まり式の0番線と、信越本線と一部の弥彦線が発着する1~3番線、そしてほかにも何本かの側線がある、一見すると普通の駅です。しかし、ここでは興味深い遺構を今でも見ることができます。

 跨線橋を渡った駅の南側には、南口が設けられています。この跨線橋、よく見るとコンクリート製の台座のような上に設置されており、南口の駅舎はその台座にくっつくように建てられていることが分かります。実はこのコンクリート製の台座、かつての弥彦線のホームなのです。

 弥彦線といえば、今はほとんどの列車が構内北側の0番線を発着します。それが、昔は南側に存在していた4・5番線を使っていました。かつては北三条駅を発車して右カーブを終えた後、東三条駅の手前で信越本線をくぐり、構内の南側、かつての4・5番線にアクセスするルートでした。

 しかし、踏切による渋滞の緩和などを目的として1997(平成9)年9月15日に高架化と、信越本線をくぐらず0番線にアクセスするルートに切り替わり、旧ルートと4・5番線は廃止されました。ホームも使われなくなりましたが、跨線橋を維持したうえで南口駅舎を建てたため、かつてのホームがポツンと残っているのです。

 ここで疑問が湧いてきます。高架化される前の弥彦線は、わざわざ信越本線をくぐって構内の南側にアクセスするという、ひと手間かかるルート。なぜ現在のように直接北側にアクセスしなかったのでしょうか。

はるか福島を目指した路線

 弥彦線は、今でこそ東三条が始発・終着駅となっていますが、かつては東三条駅から7.9km先の越後長沢駅までを結んでいました。歴史を紐解くと、東三条への乗り入れは1925(大正14)年4月10日、当時の越後鉄道により燕駅から一ノ木戸駅(現在の東三条駅、1926年8月に改称)間が延伸開業したことに始まります。

 続いて1927(昭和2)年7月31日には、改称した東三条駅から越後長沢駅までの区間が開業。つまり信越本線を横断するように、東三条駅から南西へ向けて線路がさらに続くようになったのです。越後鉄道としてはこの路線を福島県まで延伸する目論見があり、東三条~越後長沢間の延伸はその第一段階というところだったのでしょう。この計画を鑑みると、構内の南側へアクセスさせたのもうなずけます。

 ところが、この年の10月1日に越後鉄道の路線は国有化されます。この結果、福島県までの延伸計画は立ち消えとなり、越後長沢止まりとなりました。

 東三条~越後長沢間の通称・弥彦東線は利用者が少なく、国鉄時代の1980(昭和55)年4月1日に廃止され、弥彦線は東三条までに短縮されました。

 こうした歴史を振り返ると、弥彦線の高架化と0番線へのルートは弥彦東線が廃止され、構内の南側へアクセスする必要性がなくなったという要素も大きく働いたとも受け取れます。もし弥彦東線が残っていたら、信越本線を越えなければならない配線や高架化の区間はどうなっていたのか……。歴史の「もし」はありませんが、今と違った景色を想像してみるのもおもしろそうです。

 地上時代の弥彦線廃線跡は一部が遊歩道化されたほか、信越本線とのアンダーパス部分は緩やかなカーブを描いた道路に変わっており、単線の鉄道が走っていた雰囲気を感じます。また、越後長沢方面への線路跡も道路に変わっており、駅の東側、新津寄りから緩やかなカーブで南側へ分かれていく様子が見られます。

 そして、これらの間にある東三条駅の南口。かつての4・5番線ホームはその存在をさりげなく主張しながら、行き交う列車たちを日々見守っているのです。