カッチカチの重装甲なのに火力は「機関銃1丁」だけ!? 英国の「極端すぎる歩兵戦車」が生まれた切実な事情

スマホに1000個「MLCC」とは?

第二次大戦の直前、イギリスは驚異的な防御力を持つのに、武装は機関銃1丁のみという極端な戦車「マチルダ」を配備しました。なぜ大砲を積まないアンバランスな戦車が誕生したのか、その切実な開発背景と実戦での結末をひも解きます。

重装甲なのに武器は「機関銃1丁」だけの極端な戦車

 第2次世界大戦の直前、イギリス陸軍は同軍独自の戦車区分である歩兵戦車の1作目として、「マチルダI」を配備しました。

 本車は、当時の対戦車砲に対抗できる重装甲ながら、武装は機関銃1丁のみ。なんとも、防御力と攻撃力がアンバランスに思えますが、なぜこのような戦車が誕生したのでしょうか。

「マチルダI」の誕生をひも解くには、時計の針を5年ほど巻き戻します。1933年2月、イギリス陸軍のトップである参謀総長に、戦車推進派のマッシングバード元帥が就任しました。

 この頃は、第1次世界大戦が終わってから15年ほどしか経っておらず、新兵器という扱いであった戦車に対して、いまだ否定的な意見を持つ軍人も多数存在した時代でした。そうしたなか、戦車推進派であるマッシングバード元帥が陸軍トップに就いたのは画期的なことでした。

 彼は当時、イギリス陸軍唯一の大規模戦車部隊たる第1戦車旅団が暫定編成だと知ると、同旅団の正規編成化を発令。かねてから「全軍機械化」を提唱していた戦車と機甲部隊の熱烈な信奉者、ホバート准将を旅団長に据えたのです。

 同時期、第1次大戦中に戦車軍団長を務め、「戦車の育ての親」といえるエリス中将が陸軍兵器局長に就任し、当時のイギリス戦車開発の中心だった機械化推進部門の責任者を兼務します。ただ、彼は戦車を「知り過ぎている男」であったため、1920年代末から起こった対戦車砲の急速な発達を目にして、現状の戦車の限界を意識し始めていました。

 当時の対戦車砲の世界標準は、射距離約300~500mで10~45mm程度の装甲貫徹力を備えた、口径20~40mm程度の小口径高初速砲でした。ゆえに重量も軽く、身軽に動き回る歩兵が人力牽引しても、さほどの負担ではありません。このような火砲を備えた歩兵と戦うには、戦車にも相応の装甲が必要ですが、エリスの「心配の種」はまさにこれでした。

 そこでエリス中将は、前出のホバート准将に意見を求めます。すると彼は、基本となる大前提と、それに続く2案を示しました。

「対戦車砲が怖い」から生まれた2つのアイデア

 まず大前提は、「当該の戦車」は歩兵支援が主任務なので低速でもよいが、代わりに既存の対戦車砲では貫徹不可能な重装甲を備える、というものでした。そして、この要件に続いて、次の2案を出します。

 第1案は、重装甲を備えた低速で小型、機関銃を装備した戦車を大量に生産し、同車の大群に先導された歩兵部隊が、戦線の敵兵を排除して進むというプランです。これは、「重装甲」こそ施されていませんが、機関銃搭載のタンケッテ(豆戦車)による歩兵支援として、演習を通じて過去に詳しく検証された戦術に「重装甲」という要件を加えたものといえました。

 つまりホバートは、第1案の策定に際して現実に目を向け、「小型だが重装甲で機関銃を備えた戦車」さえ完成すれば、すぐに実行可能な即効性のある案となるように配慮したわけです。

 続く第2案は、低速ながらそれまでの一般的な戦車と変わらない車体寸法で、機関銃に加えて戦車砲も搭載し、中口径榴弾の直撃にも耐えられる重装甲を備え、歩兵部隊を先導して戦う戦車というものでした。敵が戦車で反撃してきた場合は、歩兵部隊を掩護するため自車の戦車砲で返り討ちにする、つまり戦車戦を遂行可能という条件が付加されていました。

 この発想は、かねてよりイギリスで提唱されていた「突破用戦車」の概念そのものでした。

 このように、両案とも軍関係者にとってわかりやすく、しかも即効性が高いものでした。ホバート准将は、まず第1案を実行し、続けて第2案へと進み、後者によって誕生した「重装甲戦車」を主力にすればよいとエリス中将に伝えたといいます。

 するとエリス中将は、この提案に従えば、自分の「心配の種」たる対戦車砲への不安が解決できると考え、早速、ホバート准将の案に示された低速、重装甲で歩兵支援を主任務とする戦車を、新たに「歩兵戦車(Infantry TankまたはI-Tank)」と命名し、まずは第1案を進めることにしたのです。

砲弾は弾くが反撃できない… 悲しき実戦デビュー

 こうして、イギリス陸軍初の歩兵戦車には「歩兵戦車Mk.I(A11)」という参謀本部戦車開発番号と、秘匿名の「マチルダ」が付与されました。しかし開発スピードは遅く、試作1号車の完成は1936年9月でした。

 ただ、装甲の最厚部は65mmと、30mm前後の装甲厚が平均的だった当時の戦車のなかでは図抜けた防御力を誇りました。クルーは2名で、車体上部に水冷式の7.7mm機関銃1丁が装備された砲塔が設けられ、ここに車長が搭乗。そして車体前部中央に操縦手が乗りました。

 こうして「マチルダ」は完成しましたが、後に後継車の「マチルダII」が登場すると、本車は「マチルダI」と称されるようになりました。

 とはいえ、「マチルダI」は前述したように機関銃1丁しか装備していなかったため、イギリス陸軍は当初から、戦術の実証と訓練に用いる予定でした。

 しかし第2次大戦の勃発で戦車不足が顕著になり、同大戦の緒戦であるポーランド侵攻で、ドイツ軍がやはり機関銃しか装備していないI号戦車を第一線で多用しているという情報を得たこともあって、「マチルダI」であっても戦力として有用と判断。1940年5月のフランス戦に投入します。

 結果、「マチルダI」は、その重装甲でドイツ軍の3.7cm対戦車砲の直撃には耐えられたものの、機関銃だけではドイツ軍の装甲車や戦車を駆逐させられるほどの火力ではなかったため、ドイツ軍の侵攻を撃退することはできませんでした。

 結果、イギリスがフランスから撤退したのを最後に第一線への投入は終了、以降は訓練用になってしまいました。

 防御力と攻撃力がアンバランスな「マチルダ」歩兵戦車でしたが、同車もまた戦車の発達のひとつの側面と言えるでしょう。