「20世紀を代表する作家」=司馬遼太郎、開高健評す手紙発見―「日本語の改造心がけた」と遺族に

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 ベトナム戦争の現地取材などで知られる芥川賞作家開高健が死去した直後の1989年12月、歴史小説家司馬遼太郎(1923~96年)が開高の妻で詩人の牧羊子宛てに送った手紙がこのほど見つかった。「わが国の二十世紀を代表する作家」と賛辞を贈り、「なによりも日本語を改造しようと心がけました」などと評している。司馬は翌月に行われた開高の葬儀で弔辞を読んでおり、その内容の元になったと思われる表現も随所に見受けられる。
 「裸の王様」「輝ける闇」などの著作と共に、ウイスキーのコマーシャルでも有名だった開高は36年余り前、食道がんに肺炎を併発し58歳で死去。交流があった司馬はその直後、開高の妻宛てに弔電を打つとともに、手書きの書簡を速達で送っていた。東京都杉並区の自宅跡にある公益財団法人「開高健記念会」のスタッフがこのほど、妻の遺品の中から発見、5月1日から神奈川県茅ケ崎市の開高健記念館で開催される「『開高健と宝石』展」で展示される。
 手紙では弔意を表した後、開高について「掘鑿のある文体を創造しようとし、日常会話までそのようになりました」と指摘。また「二十世紀のアメリカ語文体のようにシャベルで大地を掘るような文体を観照的な文章言語である日本語にというのが開高健の生涯の個人的作業であったでしょう」などというくだりもある。いずれも、90年1月に司馬が読み上げた弔辞の「地軸を掘りぬくほどの掘削力を持った希有の文体ができあがった」という部分と重なる。
 開高を「この壮烈な文学者」と評した箇所では、「立ち木をそのまま彫刻したような作品を書いたという意味」との注意書きも付けている。
 手紙はA3の用紙2枚。「かれは日常、開高語でしか話しませんでした」とも指摘し、「ついにはその話し方、スタイルが開高健そのものになりました」と分析。その上で「かれはこの言語をつかうために同国の同業者とも、月並みな関係を保つことがやや困難になり、さればこそ辺境を歩き、希少文化ともいうべき少数者たちと話すことを好むようになったのかとさえ思えます」との見解を記していた。 
〔写真説明〕開高健の死後、司馬遼太郎が開高の妻牧羊子に送った手紙。1枚目(奥)は2枚目の下書きの上に逆さまに記されており、冒頭に「手もとによき便せんなく、このような紙に書くことをおゆるしください」と書かれている=2月4日、東京都杉並区
〔写真説明〕司馬遼太郎=1991年10月
〔写真説明〕開高健=1982年2月