昭和のバブル期、大宮と成田空港をリニアで結ぶ壮大な構想がありました。埼玉県が推進したこの計画は、どのような背景で生まれ、なぜ幻に終わったのでしょうか。
リニアに魅了された県知事
昭和末のバブル華やかなりし頃、今では想像もつかない壮大なプロジェクトが各地で構想されていました。その一つが、大宮~成田空港間のリニア整備構想です。存在さえ忘れ去られたリニア計画は、どのようなものだったのでしょうか。
この構想を推進したのは当時の埼玉県知事、畑和(はた・やわら)です。畑は戦前、歩兵第3連隊に2等兵として所属しており、同部隊が決起した「二・二六事件」では上官の命令で反乱軍に参加させられるという稀有な経歴の持ち主です。
社会党所属の衆議院議員などを経て、1972(昭和47)年の埼玉県知事選で当選。以降、1992(平成4)年まで5期20年の長期政権を築きました。任期後半は、さいたま新都心構想の推進、埼京線やニューシャトルの整備を条件に東北新幹線の建設を認めるなど、県内の社会資本整備を積極的に進めたことで知られます。
そのような彼を魅了したのが、リニアモーターカーです。1986(昭和61)年の業界誌『地方債月報』に掲載された「成田空港と国鉄大宮駅を高速リニアモーターカーで結ぼう」と題した記事には、「私は、昨年からこの新しい輸送機関のことを研究し、たびたび試乗もしていますが、調べれば調べるほど有望な輸送手段であり、1日も早く実用化されることを願っております」と記しています。
当時、リニアは宮崎実験線で研究開発していましたが、実用化に向けた次のステップとして将来の営業運転を想定したモデル線(新実験線)の建設が求められていました。畑はその候補として大宮~成田空港間を提案したのです。
成田新幹線計画の頓挫(とんざ)で、成田空港はアクセスに大きな問題を抱えていました。東日本各地から成田空港へ行く場合、混雑の激しい東京都心を通過する必要があります。そこで、東北・上越新幹線の走る大宮と成田空港間にバイパスルートを作り、都心の混雑緩和と空港アクセス改善を実現したいというのです。
いかにも突飛な話ですが、背景にあるのは1985(昭和60)年に国土庁(当時)が発表した「首都改造計画」でした。6年にわたる検討を経てまとめられた計画は、立川、横浜・川崎、大宮・浦和、千葉、土浦・つくばなど、東京周辺に経済的自立性の高い都市圏を形成し、東京一極集中を解消する内容でした。
首都改造計画は「従来の新市街地の開発は、東京都心部を指向した放射状に住宅地を開発することで進められてきた。このことが東京中心部の業務集積に一層拍車をかけ、また、放射方向の通勤混雑等の要因となってきたことは否めない」とした上で、今後の開発は業務核都市相互を結ぶ環状交通の整備が必要としています。
その中でも「特に開発余力の大きい東京大都市圏の東部地域」として、大宮~筑波研究学園都市~成田空港~木更津付近に、住居、商業、工業、文化、レクリエーション等複合機能を有する新市街地の開発、整備を図る」としています。
国鉄も首都改造計画に対応した計画を検討しており、民営化直前に発行された『東工90年のあゆみ』の「開発線等将来計画図」には「東京都市圏大環状線計画」が記載されています。埼玉県のリニア構想はこれらの動きに呼応したものだったのです。
五つのルート案と採算性の壁
では大宮・成田空港リニア構想の中身はどのようなものだったのでしょうか。埼玉県が1987(昭和63)年3月に公表した「大宮・成田間高速浮上式リニアモーターカー導入に関する調査」報告書から見ていきましょう。
報告書によれば、ルートは下記の5案が検討されました。
(1)大宮~守谷~成田(77.6km)線形や施工性を考慮し可能な限り市街地を避ける
(2)大宮~筑波研究学園都市~成田(97.1km)研究学園都市との直結を図る
(3)大宮~つくば~成田(94km)首都圏中央連絡道=圏央道(45km)を活用する
(4)大宮~流山~成田(72km)大宮・成田間を可能な限り直線で結ぶ
(5)大宮~流山~成田(76.4km)東京外郭環状道路=外環道(6km)や千葉ニュータウン内鉄道用地(19km)の活用を図る
大宮~成田間を直結する(1)(4)(5)に加え、つくば経由の(2)(3)が検討されたのは首都改造計画を踏まえたものです。また、いずれも当時、検討が具体化しつつあった常磐新線(つくばエクスプレス)との結節を考慮しています。
5案の各延長は72~97kmと大きな差がありますが、高速運転のリニアでは所要時間の差はわずかとして問題視はしませんでした。総建設費は(1)の4016億円が最小で、(2)の5029億円が最大、年間の運営費も(1)の368億円が最小で、(2)の484億円が最大です。
いずれの案も成田空港駅付近は、後に成田エクスプレス・京成電鉄のターミナルビル乗り入れに転用される成田新幹線の構造物を活用する計画でした。以上の案から、導入空間確保の難易度、施工難易度、コスト、需要などを比較検討した結果、埼玉県は(2)案が優位との結論を示しています。
リニア方式は、鉄道総研・JRが開発中の超電導方式、日本航空が開発中の常電導方式(HSST)、ドイツの常電導方式(トランスラピッド)を比較していますが、前述のように宮崎実験線の後継との位置付けから超電導方式の導入が前提です。最高速度500km/h、表定速度385km/hで大宮~筑波研究学園都市~成田空港間を15分で結ぶ想定でした。
建設費は県が資本金として2割を出資し、約7割を政府資金、約1割を民間資金でまかなう試算をしています。事業主体は第3セクターが建設・運営を担うほか、自治体または第3セクターが建設を行う上下分離が想定されていました。
ただ収支採算性を見ると、政府の建設費補助が得られた場合、(1)ルートは15年、(5)ルートは18年で黒字転換するのに対し、本命の(2)ルートは23年と長く、補助が得られない場合は黒字転換が不可能という結果でした。需要予測は開業5年後でも1日あたり3.5~3.7万人程度であり、元より厳しい計画だったのです。
結局、1989(平成元)年6月に新実験線の建設地は山梨県に決定。直後にバブル経済は崩壊し、旗振り役の畑知事も1992(平成4)年に退任したことで、埼玉県のリニア計画は幻と消えたのでした。