福井県出身・東京と大阪を又に駆けた力士【シリーズお墓から郷土の偉人発見 VOL.1】

稀勢の里さんの優勝などで大相撲の興業成績も好調ということですが、今回は明治・大正期に活躍した福井県出身の大相撲力士、玉手山七郎 さんをご紹介します。

福井県大野郡出身の玉手山七郎(本名は縁本七郎)さんは、1904年に大嶽親方(元幕下の毛谷村六介)の長男の紹介で大嶽部屋に入門しました。狼七郎の四股名で初土俵を踏むも、脚気を理由に廃業となりましたが実際は脱走だったようです。後に大阪相撲の雷部屋に加入し小嵐を名乗っています。

東京相撲へ復帰した際に同名力士がいたため、イギリス製のラージ自転車にちなみ羅亜地山と改名届を出したところ、広告的な力士名は受け付けられないと協会から却下されました。やむを得ず、龍田川という四股名を付けたということです。再び大阪相撲に戻った後は、中村部屋(大阪)に加入し四股名も小嵐に戻して入幕を果したしましたが、放駒の東京相撲への加入問題が引き起こした混乱に嫌気が差しまた脱走、三度上京の末、幕内に附け出されました。その時に玉手山という四股名を名乗りました。

 

戦績を見ると、1911年2月の新入幕場所は初日から3連敗を喫して自信をなくし、休場して帰阪の支度をしましたが、兄弟子の玉椿に諭されて再出場、4連勝で乗り切りました。同年6月場所から玉手山勝司とし、1913年1月より四股名を玉手山七郎と名乗りました。1914年に小結、1915年には関脇に昇進しました。しかし1917年5月に頸部を負傷し、1918年の1月場所限りで引退となり、年寄り大嶽を襲名したということです。

171cm 90kgで、小兵でしたが足腰が粘り強く、右四つで食い下がってから変化と奇手を用いる俊敏な取り口を得意としたということです。兄弟子の玉椿の薫陶を受け、手取りの曲者として併称されました。。
また、廃業後は東京中野で「玉手山養鶏場」を経営して「東京一の養鶏場」との評判の鶏卵・酒類販売業営んでいました。(享年54歳)

墓石は和型で「縁本家之墓」とあります。左側に墓誌があり、『戒名は玉手院顕勝朗山居士』です。「大日本大角力関脇力士 玉手山事俗名縁本七郎 行年五十五歳」と刻まれてます。同墓所には、息子で陸軍曹長としてパラオ島にて戦死した縁本誠二郎(享年40)と、孫でガダルカナル島で戦死した海軍職の縁本明(享年19)も眠っているということです。また多磨霊園には、玉手山引退後に活躍した力士、若常陸恒吉(21-2-83 大庭家)も眠っています

幕内成績 〔玉手山〕
明治44年 2月 番附外(西) 4勝3敗3休

幕内成績 〔玉手山 勝司〕
明治44年 6月 西前15 5勝4敗1分
明治45年 1月 東前 7 7勝3敗
明治45年 5月 西前 2 2勝6敗2分

幕内成績 〔玉手山 七郎〕
大正 2年 1月 西前 9 2勝2敗2分1預3休
大正 2年 5月 東前 9 6勝1敗2分1休
大正 3年 1月 東前 1 5勝2敗2分1預
大正 3年 5月 西小結 6勝1敗3分
大正 4年 1月 西関脇 4勝2敗3分1休
大正 4年 6月 東張小 4勝4敗1分1預
大正 5年 1月 西関脇 1勝6敗3休
大正 5年 5月 西前 3 6勝4敗
大正 6年 1月 東小結 1勝9敗
大正 6年 5月 東前 7 1勝3敗6休
大正 7年 1月 西前12 1勝9休

通算成績 : 15場所 55勝50敗16分3預26休

※東京都にある多磨霊園には、全国から世に出た多くの偉人達が眠っています。各地の偉人達の歴史をお墓を通して覗いてみましょう。

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◆取材協力
歴史が眠る多磨霊園
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/
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