本州最南端の和歌山県串本町には、本土と離島部を結ぶ長大な橋があります。離島で“1回転”する象徴的な形の橋は、いかにして誕生したのでしょうか。
船の欠航でたちまち孤立した紀伊大島
本州最南端の和歌山県串本町。三方を雄大な太平洋に囲まれる風光明媚なエリアですが、かつては悩ましい問題を長らく抱えていました。それが、本州側のすぐ先にある紀伊大島へのアクセスでした。
本州側から見た紀伊大島は、東南約1.8kmの沖合にあり、東西約8km、南北約2.5km、周囲26kmで人口は約2000人。1870(明治3)年に点灯された日本最古の石造りによる樫野崎灯台、日米修交記念館、トルコ軍艦エルトゥールル号遭難碑など、国内外の歴史にかかわる重要な観光資源がある島です。
しかし、この紀伊大島と本州側の行き来は長らく、巡航船やフェリーに頼っていました。このエリアは台風の通り道でもあるため、強風や高波で船が欠航することが度々あり、一度船が止まると島民は孤立し、物資の補給が絶えたこともありました。
また、こういった欠航時や深夜などに島民が急病を患ったり怪我をしたりしても、本土の救急病院への搬送が難しく、リスクと隣り合わせの日々を送っていました。通勤・通学などの苦労に加え、紀伊大島で採れた水産物の輸送にも壁があります。「橋」は地元の人たちにとっての長年の悲願でした。
ちなみに民謡「串本節」は、時代によって歌詞が異なることで知られていますが、昭和初期の歌詞には「ここは串本 向かいは大島 橋を架けましょ 舟橋を」と歌われており、その時代から地元の人たちが「橋」の開通に期待を込めていたことが分かります。
地元の人たちの期待に反して、長らく船での行き来が続いた紀伊大島と本州側ですが、1980年代後半、全国的にリゾート開発や地域活性化の機運が高まります。紀伊大島には前出の観光資源が複数あることなどから、この機運に乗り1989年についに「大島架橋事業」が本格的に着手されました。
事業費は約141億円。建設まで10年の月日を費やしましたが、1999年、ついに長年の悲願だった橋が完成し、「くしもと大橋」と名付けられました。
アーチ+ループの2つの橋を組み合わせた画期的な構造
くしもと大橋は、紀伊大島と本州側とを直線で結ぶのではなく、間にある無人島・苗我島を中継し、アーチとループの二つの異なる橋を組み合わせる画期的な構造でした。
アーチ橋は橋長290m、アーチ支間230mの中路式鋼2ヒンジアーチ橋で、ダイナミックながらも美しいデザインを実現しています。
一方のループ橋は、本州側から苗我島へと上がる全長386mの螺旋状の橋で、こちらもまた近代的な印象を与えます。ループ橋にしなければいけなかった理由は、漁船の航路に支障しないよう、橋の下に十分な高さを設けなければいけなかったことと、紀伊大島側には海食崖(かいしょくがい)という険しい崖地があり、この崖の上に橋を結ぶ必要があったためです。
このように、地域の構造の問題をクリアさせながら、なおかつ優れた景観を実現するために完成したのが、アーチ橋・ループ橋の双方の構造を持つくしもと大橋でした。
筆者(松田義人:ライター・編集者)は夏のある日の夕方、本州側からくしもと大橋をクルマで渡りました。通行料は無料です。
窓を開けて走ると、穏やかな潮風と夕日が差し込み地元の美しさや情緒を肌で感じることができました。また、本州側から始まるループ橋の半径45mのカーブは体感的には空へと飛び出すような不思議な感覚を味わうこともできました。
また、その先にあるアーチ橋は、紀伊大島の玄関口のような印象もあり、どことなくロマンチックな気分に浸ることもできました。
このように、地元の人たちにとっての悲願だった橋であることに加え、絶好のドライブラインでもあるくしもと大橋。近隣の観光と合わせて、マストで走ってほしいこの地の歴史と美しさが詰まった橋です。