「イギリス軍戦車には車内で紅茶をいれるための専用ケトルがある」という有名な噂がありますが、果たして本当なのでしょうか。戦車兵の「ティータイム」を守るための装備に隠された、シビアな歴史と公式な理由を探ります。
紅茶はイギリス兵にとっての「弾薬」?
紅茶は、イギリス人の暮らしに不可欠なものとして知られています。高視聴率ドラマの放送後は、多くの家庭が一斉に電気ケトルのスイッチを入れるので、電力グリッドのキャパが追いつかず、他地域から電力融通を受ける事態が生じるほどだそうで、それほどイギリス人の生活リズムの中に根付いていると言えるでしょう。
だから、戦車に紅茶をいれる装置が備わっているという話にもリアリティーがありますが、実はこれ、半分は正しく、半分は誇張です。実際、戦車の車内で紅茶をいれられる装置は存在します。その装置の名前は「ボイリング・ヴェッセル(Boiling Vessel)」、日本語に直訳すれば「湯沸かし容器」となります。この装置で湯を沸かし、紅茶をいれることは、イギリス戦車兵の伝統として完全に定着しているのです。
イギリス軍と紅茶の歴史は、1850年代のクリミア戦争まで遡ります。この戦争で、不衛生な水が原因の感染症に見舞われたイギリス軍は、煮沸した湯を使う紅茶の飲用を徹底しました。また後方の軍病院でも、負傷兵の衛生状態改善に努めた看護師のフローレンス・ナイチンゲールが、紅茶の支給を徹底したことで、傷病兵の健康状態が劇的に改善したと言われています。
第1次世界大戦のイギリス軍では、兵士1人につき1日に約18g、ティースプーンで換算すると4杯分の紅茶が、60gの砂糖と一緒に配給されていました。ちなみに、第2次世界大戦になると、ウィンストン・チャーチル首相は、民間配給量を減らしても、前線での紅茶供給を絶やさぬよう厳命しています。飲料水の煮沸作業の徹底や、紅茶なしでは飲み込めないほど硬いビスケットが配給されるという理由はあるにせよ、紅茶はまさにイギリス軍兵士の戦闘力を維持する「弾薬」であったのです。
紅茶タイムのせいで、イギリス軍が負けた?
しかし、ここで疑問が出てきます。いくら兵士に紅茶が不可欠であっても、なぜ戦車の車内専用の電気ケトルを開発する必要があったのでしょうか?
有名な話として、ノルマンディー上陸作戦での手痛い経験が挙げられます。1944年6月13日未明、イギリス軍第22機甲旅団の先遣部隊はヴィレル・ボカージュという村の郊外で出撃準備を整えつつ、朝食をとっていました。そこに突如、ドイツ軍の「ティーガーI」重戦車が奇襲攻撃を仕掛けてきたことで、戦車、装甲車数十両を失う大損害を受けてしまいます。ちなみに、この「ティーガーI」を指揮していたのが、エース戦車長として有名なミヒャエル・ヴィットマンでした。
この敗北にショックを受けたイギリス軍が「もし朝食の準備で戦車兵が車外に出ていなかったら、即応してヴィットマンの自由にはさせなかった」と考え、車内でお湯を沸かせるボイリング・ヴェッセルが開発された――そのような背景説明がされることもあります。
実のところ、ヴィレル・ボカージュの敗北とボイリング・ヴェッセルの間に、直接の関連性はありません。しかし戦後の調査では、イギリス戦車兵の死傷者の約37%が、車外での作業中および脱出時に生じていたことが判明しています。紅茶タイムに代表される車外での炊事中の損害の多さが、イギリス軍でも問題視された可能性は、現在、多くの軍事専門家が指摘するところです。
核戦争時代、NBC環境対策の切り札として導入
ボイリング・ヴェッセルが制式化されたのは、戦後第1世代MBT(主力戦車)である「センチュリオン」の導入時でした。以降、鉄製からステンレス製の筐体になったり、電源ソケットが改良されたりしながら、2026年現在は「RAK15」と呼ばれる4代目のバージョンになっています。
このように、戦車兵の紅茶タイムに欠かせないボイリング・ヴェッセルですが、導入目的は、あくまで「水と携行食糧の加熱器」という建て付けです。「センチュリオン」が登場した冷戦時代の初期には、戦術核や生物兵器、化学兵器の使用が真剣に考えられていました。そのようなNBC兵器の使用環境下となる戦場で、密閉された装甲戦闘車両内で乗員の士気と戦闘力を保つのに、湯沸かし器が不可欠であるというのが、ボイリング・ヴェッセル導入の公式な理由です。
お湯の煮沸についても、強い蒸気の発生は車両機材の故障の原因となるので、沸騰前に安全装置が働きます。その時の温度が、「たまたま紅茶をいれるのに最適な」摂氏90度前後というだけのことです。
ちなみに、ボイリング・ヴェッセルはイギリス軍戦闘車両の標準装備として、現在、約2万基が普及しています。そして、この装置が故障している車両は、戦闘準備が整っていないものと見なされ、「任務遂行不可」と判断されます。これは、翻るとそれほど重要な装備として、軍に認識されていることの証左と言えるでしょう。
ここまで聞くと、陸上自衛隊の戦車ではどうなっているのか気になりますが、日本には制式化された煮沸装置はありません。それどころか、隊員が自腹で購入した登山用バーナーなどを使用しているハナシまで耳にします。最近、取り沙汰される防衛費増額が、戦車の居住性の改善にもつながることを筆者(宮永忠将:戦史研究家/軍事系Youtuber)は願うばかりです。
【チャレンジャー戦車にも搭載!?】ボイリング・ヴェッセルの使い方を動画で見る