1958年、アメリカ本土の住宅地に米軍の核爆弾が落下する前代未聞の事故が発生しました。なぜ自国に核が落ちたのか? 爆撃機B-47の機内で起きた信じられないミスと、現在も残るクレーターの歴史に迫ります。
アメリカ本土に落ちた核爆弾
21世紀の今日、核兵器の主力は地上や潜水艦から発射される弾道ミサイルですが、ミサイルの性能が低かった1950年代から1960年代初めにかけては、大型の戦略爆撃機に搭載する核爆弾が主な役割を担っていました。
核兵器というと、心臓部である核物質でできた「コア」をはじめとして、極めて厳重に取り扱われるイメージがありますが、じつは事故によって失われたケースが複数ありました。
なかでも、1958年3月11日に発生した事故では、プルトニウムのコアこそ搭載されていなかったものの、核爆弾が誤ってアメリカ本土の町に落下し、地上に被害をもたらす前代未聞の結果となってしまいました。なぜ、そのようなことが起きてしまったのでしょうか。
時計の針を1958年3月11日に戻しましょう。ジョージア州にあるハンター空軍基地では、第308爆撃航空団第375爆撃飛行隊に所属するB-47E(登録番号:53-1876A)が、イギリスを経由して北アフリカに向かう途上で爆弾投下を模擬する訓練「スノー・フラリー作戦」のため、出発準備を整えていました。爆撃を模擬する訓練ではありましたが、冷戦下の当時、ソ連との戦端が開かれる非常事態を想定して、実際の核爆弾も搭載していました。
搭載されていたのは、長崎に投下されたプルトニウム爆縮型の「ファットマン(マーク3)」を改良した、「マーク6」と呼ばれる30キロトン級の威力を持つ爆弾です。もちろん、誤って起爆することのないよう、プルトニウムのコアはあらかじめ取り除かれ、機内の「バードケージ」と呼ばれる特別な場所で厳重に保管されていました。
現地時間の16時半過ぎ、予定通りにB-47Eはハンター空軍基地を離陸し、まずはイギリスへと進路を定めました。乗組員は機長のアール・コーラー大尉、副操縦士のチャールズ・ウッドラフ大尉、そして航法士兼爆撃手のブルース・クルカ大尉と機上整備員のロバート・スクレプトック軍曹の4名です。
爆弾倉での致命的なミス
離陸して30分も経たないうちに、コックピットで爆弾倉に異常があると知らせる警告音が鳴りました。
B-47は、機長と副操縦士がキャノピーに覆われた操縦席で前後に並ぶという、戦闘機のようなタンデム配置のコックピットを採用しており、飛行中は操縦席を離れることができません。機長のコーラー大尉は、コックピットより一段下の機首部分に陣取っているクルカ大尉に、爆弾倉の点検を指示します。
クルカ大尉は狭い通路を通り、問題の爆弾倉に到達しました。そこで目に入ったのは、装架装置に固定するピンが抜けているマーク6核爆弾の姿でした。とても危険な状態です。
爆弾倉の中を12分ほど調べた末に、クルカ大尉は固定ピンが爆弾の上にある装架装置の上にあるはずだと気づきましたが、身長が足りずそのままでは爆弾の上方を確認するのは困難でした。そこで、上がよく見えるように爆弾倉の内部を登ろうと試みますが、このとき誤って「非常投下レバー」に手をかけてしまったのです。
非常投下レバーは、爆弾が何らかの原因で投下されなかった場合に、機上での起爆を避けるため強制的に爆弾を落とすための緊急用装置です。意図せず非常投下レバーを引いてしまった結果、総重量4t弱のマーク6核爆弾は装架装置を離れて落下し、その自重で爆弾倉のドアをこじ開け、地上へと落下していきました。
クルカ大尉も爆弾と一緒に地上へ落下する危険にさらされましたが、なんとか機内の部品に掴まり、安全な場所へ戻ることができました。
奇跡の生還と現在に残るクレーター
事故が起きた当時、B-47Eはサウスカロライナ州にあるマーズブラフという小さな町の上空を飛行していました。爆弾は農家であるグレッグ家の母屋と納屋の間付近に落下。放射性物質のコアはなかったものの、コアを爆縮するための起爆薬が爆発し、直径70フィート(約21m)、深さ35フィート(約10m)の巨大なクレーターを作りました。
家と納屋は爆発によって全壊し、飼っていたニワトリは全滅しましたが、周囲にいた6人の家族は幸いにも破片による軽傷で済みました。
事故後ただちにB-47は引き返し、事故発生時の手順に従って落下地点周辺の空中写真を撮影したうえで、出発地のハンター空軍基地へ連絡を入れました。プルトニウムのコアが入っていないにしろ、核爆弾がアメリカの民間の土地に落下して被害をもたらしたのは、これが初めてのことでした。
厳密には、コアの起爆時に核分裂を安定させるための詰め物(タンパー)として、少量のウランが爆弾内部に残っており、これが爆発で周辺に飛び散りました。しかし、のちにアメリカ原子力委員会とロスアラモス研究所の手で除染されています。
事故によって負傷し、住む家を失ったグレッグ一家はアメリカ空軍を相手取って損害賠償を求める訴訟を起こし、最終的に5万4000ドルの賠償金を得ることができました。爆弾の破片のほとんどはアメリカ空軍によって回収されましたが、一部の破片と関連資料がマーズブラフの近隣にあるフローレンス美術・科学・歴史博物館に展示されているほか、爆弾が落ちたグレッグ家の跡地にあるクレーターがそのままの状態で保存されています。