「名前を取り戻した駅」の数奇な変遷 線路や信号機が丸ごと残存! 国鉄線を横切っていた私鉄廃線跡のいま

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JR越後線の寺泊駅は、一度「大河津」駅だった期間があります。寺泊→大河津→寺泊と駅名が2度も変わった背景には、今では廃線となった私鉄「越後交通長岡線」の存在が大きく関係していました。

駅の南側に広がる空き地

 JR越後線の寺泊駅(新潟県長岡市)は、「魚のアメ横」や海水浴場の玄関口として知られています。この駅、以前は大河津という名前で、さらに昔は寺泊という名前でした。つまり一度他の駅名に変わりながらも、最終的に当初の駅名に戻っています。なぜこのようなことが起こったのでしょうか。これには現在の寺泊駅の南側、駅舎と反対側に広がる空き地が大きく関係していました。

 寺泊駅舎の反対側に、越後線の線路と並行するように広がる空き地。そこに鉄道用信号機や線路などの遺構を見ることができます。これらは、かつて西長岡方面と海岸方面を結んでいた鉄道「越後交通長岡線」のものです。

 越後交通と聞くと、今ではバスの運行会社が思い浮かびます。しかし、かつては鉄道事業も営んでおり、信越本線の来迎寺から西長岡を結ぶ来迎寺線と、西長岡から越後交通の寺泊を結ぶ長岡線、そして軽便線の栃尾線を運営していました。

 つまり、寺泊駅は越後線と越後交通長岡線の2路線が乗り入れる駅だったのです。

 駅の歴史を紐解くと、寺泊駅は1913(大正2)年4月20日に越後鉄道、のちに国鉄越後線となる鉄道の駅として開業します。続いて1915(大正4)年10月1日に長岡鉄道、のちの越後交通長岡線が開業。つまり越後線、越後交通長岡線の順にこの地に乗り入れを開始しました。

 ここで長岡鉄道が海岸方面に寺泊駅を設置するため、元祖であるこの寺泊駅は大河津駅に改称されます。開業からわずか2年半後のできごとでした。

 しかし自家用車の普及や沿線の利便性があまり良くなかったことなどから利用者は減少。越後交通長岡線は1973(昭和48)年4月16日に大河津から海側を廃止、さらに1975(昭和50)年4月1日には大河津から越後関原までの区間も廃止され、大河津駅から越後交通の列車は姿を消します。

 国鉄越後線は越後交通長岡線の撤退後も大河津駅のまま営業しましたが、1986(昭和61)年11月1日に駅名を変更し、再び寺泊駅となりました。

 ちなみに越後交通長岡線の寺泊駅は当初海岸側にありましたが、水害の影響で休止され、途中駅だった寺泊新道駅が寺泊駅となります。駅名の歴史をたどると、越後線の寺泊駅は実は4代目となるのです。

随所に見られる廃線跡

 興味深い変遷を持つ寺泊駅ですが、周辺では今でも越後交通長岡線の遺構を随所で見ることができます。

 冒頭でも紹介したとおり、駅の南側にはかつての越後交通長岡線の駅跡が広がります。列車が発着していたホームをはじめ、一部の線路も残り、さらには錆び付いた信号機も。鉄道の廃止から50年以上が経過する今も、これだけの遺構があることに驚きです。これらは駅南側の道路から観察できます。

 越後交通長岡線は駅の西側(越後線桐原側)で越後線に合流、数十メートルほど走行したあと海岸方面へ分岐していました。越後線の鰐口第二踏切から海側へやや歩くと、当時の架線柱を見ることができます。線路は撤去されましたが、緩やかに曲線を描く道や架線柱からここが線路跡であることが伝わってきます。

 このように、国鉄と私鉄の線路が平面で交差するのはとても珍しいことだったそう。越後線を横切っていくような廃線跡は貴重な光景です。

 一方、駅の東側は線路が残っているところもあります。場所によってはその姿をしっかりと見ることが可能で、まるで最近まで列車が走っていたかのよう。実際のところ、当時の大河津から西長岡方面は復活が検討された時期もあったようで、廃止後しばらくの間は設備の撤去がストップしていました。

 最終的に当初の駅名に戻った寺泊駅。改称に影響を与えた鉄道の遺構は、今もなおかつての存在を静かに主張し続けています。