戦時中 日本軍が実施した完璧な「奇跡の撤退作戦」支えたのは“足の速い新型駆逐艦”と“画期的な上陸艇”だった?

海と陸 日本にある2つの鉱山とは

絶望的とも思われたキスカ島撤退作戦

 1943年5月27日、アラスカから伸びるアリューシャン列島で、周囲をアメリカ軍に包囲され孤立無援となったキスカ島の日本軍。しかし、同島ではさまざまな条件が偶然重なり、劣勢に立たされた日本軍としては異例の、全員無傷での撤退に成功しました。この奇跡ともいえる「キスカ島撤退作戦」とは、どのような作戦だったのでしょうか。

 日本軍は1942年6月、アリューシャン列島のアッツ島とキスカ島を占領し、それぞれに守備隊を置いていました。

 しかし、両島の占領価値はミッドウェー海戦の敗北により低下しました。それでもアラスカ準州(当時)に位置するとはいえ、アメリカ領であることには変わりなく、戦局がアメリカ有利に傾くと、自国領が日本の勢力圏のままにあると指揮に関わると判断し、アメリカは両島に猛爆撃を加え、奪還への意欲を示しました。

 1943年5月12日、アメリカ軍はついにアッツ島に上陸します。25日ごろには日本軍守備隊は風前の灯火となり、弾薬も底をつき、いわゆる「バンザイ突撃」と呼ばれる銃剣突撃を行う事態にまで追い込まれました。戦闘終了後の5月30日には、わずかな捕虜を残して守備隊全員が戦死。これがその後多用されることになる「玉砕」という言葉が初めて使われた戦いとなりました。

 同じく5月12日に開始された上陸作戦により、窮地に陥ったのがキスカ島守備隊でした。キスカ島は、アメリカ軍基地のあるアムチトカ島とアッツ島の間にあり、既に制海権・制空権をアメリカ軍に握られており、完全に孤立無援の状態にありました。

 残された守備隊は陸海軍合わせて約6000人。このままでは降伏するか、アッツ島と同じく孤立無援で絶望的な戦いを強いられる状況でした。大本営では、アッツ島守備隊が玉砕する直前にキスカ島守備隊の撤退命令を出しましたが、救出作戦については意見が分かれていました。

当初は潜水艦に頼るが失敗…

 輸送船や駆逐艦を用いて夜間に撤退救出作戦を行うのが最善策であることは分かっていましたが、ソロモン諸島での戦いで多くの艦艇を消耗しており、海軍は北方の重要でない島の撤退のために艦艇を割くことに消極的でした。事実、大本営の決定でアッツ島の救出は断念されています。

 しかし、アッツ島を見捨てる代わりに、当時北方軍司令官だった樋口季一郎中将は、キスカ島の撤退だけは何としても実行することを認めさせました。

 当初は潜水艦による救出が行われました。10隻以上の潜水艦がキスカ島に接近し、最終的には約900名を救出しました。しかし、アメリカ軍の哨戒網は強力で、3隻の潜水艦を失い、多くが損傷したため、この作戦はすぐに中止されました。

 残る約5000人をどのように撤退させるか。大本営は頭を悩ませました。制空権・制海権をアメリカに奪われたままで近づけば、撤退船団の壊滅的損害は避けられません。

 しかし、日本海軍はひとつの希望を見出しました。それは「キスカ島周辺にはしばしば濃霧が発生すること」と「濃霧下でも索敵できる最新式レーダーを搭載した高速水上艦を保有していたこと」です。そこで考えられたのが、軽巡洋艦と駆逐艦を用いた高速撤退作戦でした。

 特に重要な役割を担ったのが、新型駆逐艦「島風」で、二二号電探と三式超短波受信機(逆探)という日本海軍としては最新鋭のレーダーを装備していました。

 濃霧が発生すれば、アメリカ軍の爆撃機は飛べず空襲を回避できます。さらに「島風」はレーダーで敵を索敵でき、40ノットの高速航行能力もあり、撤退戦に最適でした。

新たな撤退作戦の実行部隊である第一水雷戦隊の司令官に着任した木村少将は、気象専門士官の派遣と駆逐艦10隻、最新鋭「島風」の投入を要望。こうして「奇跡」と呼ばれるキスカ島撤退作戦は始まりました。

奇跡の撤退を支えた「ダイハツ」

 7月初旬、第一水雷戦隊はキスカ島に接近しますが、天候は晴れで霧の気配はなし。木村少将はいったん日本へ帰投しますが、「将たる器に乏しい」「臆病風に吹かれた」などの心無い批判も受けました。それでも木村少将は諦めず、7月22日に再びキスカ島へ向かう決意をします。キスカ島では、守備隊全員が救援艦隊の到着に備え、毎日海岸に整列して待機していました。

 7月29日、旗艦「阿武隈」に不思議な情報が入ります。キスカ島周辺を哨戒中のアメリカ艦隊が砲撃戦を行っているというのです。濃霧の夜、アメリカ艦隊はレーダーに映った影を日本艦隊と誤認して砲撃を開始しました。この影が何だったかは正確には不明ですが、日本軍ではなかったことは確かです。その後、アメリカ軍は弾薬補給のためキスカ島を離れました。

 日本軍はこのチャンスを逃さず、高速駆逐艦が島へ急行します。ここで陸軍の秘密兵器「大発動艇」が威力を発揮しました。

 1930年代初期に開発されたこの大発(ダイハツ)とも呼ばれる上陸艇は、艦首が倒れる扉式で、海岸に直接乗り上げる際、船首を即席の歩板として使用できます。1隻で50~100名を輸送可能で航行時の静音性も高く、撤退作戦に非常に有効でした。

 沖合の艦艇に人員を収容後、すぐ岸に戻りピストン輸送することで、わずか55分で約5,000人を撤退させることに成功しました。

 制空権・制海権を失った絶望的な状況での撤退。この「奇跡の作戦」は、キスカ島撤退作戦として後に語り継がれることになりました。

 さらにアメリカ軍には不運が続きます。弾薬を補給してキスカ島に戻ったアメリカ軍は、アッツ島での戦闘経験から日本軍が徹底抗戦すると思い込み、大規模な艦砲射撃の後、北西側から上陸を試みました。しかし日本軍は不在で、アメリカ軍は同士討ちや地雷、武器の暴発により100名以上の死傷者を出す大惨事となりました。また、哨戒中の駆逐艦「アブナー・リード」も触雷し死傷者が出ました。日本軍の鮮やかな撤退の直後、アメリカ軍は「史上最大の実戦的上陸演習」「米国史上最悪の軍事訓練」などと皮肉られる結果となったのです。