イラン革命を率いたイスラム教シーア派の法学者ホメイニ師の死去に伴い、1989年に第2代最高指導者に就き、中東の大国を率いる絶対的権威として君臨した。ホメイニ師に比べてカリスマ性の欠如が指摘されたが、反対分子を次々に排除し、軍・治安組織も掌握。徹底した反欧米の強硬姿勢を貫き、幾多も苦難に直面してきたイスラム体制の存続に腐心した。
イラン北東部のシーア派聖地マシャド生まれ。10代後半から中部コムでホメイニ師に師事。親米パーレビ王制打倒運動に加わり、幾度も投獄された。革命後は精鋭軍事組織「革命防衛隊」に加わり、隣国イラクとの戦争にも従軍した。
ホメイニ師の存命中に後継者とされたのは穏健志向の別の法学者。しかし、政権批判で失脚し、「代役」となったのが、2期大統領を務めたハメネイ師だった。シーア派の法学者としては中位だったが実務能力が評価され、就任に必要な憲法上の位階要件を変えてまで最高指導者となった。
高位の「アヤトラ」に昇進し、宗教的にも権威を確立。「革命の輸出」や制裁下での自立を目指す「抵抗経済」を訴え続けた。核・ミサイルの開発で国際社会の反発を浴びた一方、ファトワ(宗教令)で核兵器の製造・保有を禁止。米欧が求めたウラン濃縮活動停止は「自立の原則に反する」と断固応じなかった。
国民の直接選挙で選ばれる大統領が時に保守派と対立する中で、イスラム革命理念からの「逸脱」を防ぐことも重要な役割だった。穏健・改革派の大統領が社会の自由拡大や対米関係改善を模索すると、ブレーキをかけた。保守穏健派ロウハニ政権(2013~21年)下で結んだ欧米などとの核合意では、屈服と見なされかねない大幅な譲歩にくぎを刺した。
権力の源泉は、イランで正規軍より強い軍事力を持つ最高指導者直轄の革命防衛隊だった。軍備拡充のみならず経済利権の拡大も容認し、体制護持に対する強い忠誠を保たせた。体制に反するデモは多数の犠牲者をいとわず弾圧。独裁者としての負の側面も強かった。
81年にはモスク(イスラム礼拝所)での暗殺未遂で右腕の自由を失い、最高指導者に就任後はイラン国外へ出ることもなかった。政界や軍の要人らを集めた演説では、晩年まで革命理論の浸透に努め、生前に後継者を指名していたとする情報もあるが一切公にしなかった。
〔写真説明〕イランの最高指導者ハメネイ師=2月17日、テヘラン(EPA時事)