東京の大井町にあるJR東日本の「東京総合車両センター」は、国鉄時代に鉄道の収容数を増やすことを目的として建設されました。隣には国鉄職員用の12階建て宿舎用アパートが建てられましたが、これは都心の高層化の先駆けともいえるものでした。
珍しい地上2階建て構造
2026年3月、JR京浜東北線大井町駅(東京都品川区)の隣接地に商業施設、オフィス、ホテル、住宅などが一体化した複合ビル「大井町トラックス(OIMACHI TRACKS)」がオープンします。
山手線の車両を一手に引き受ける東京総合車両センターに隣接する当地には、かつてJR東日本の広町社宅がありました。耐震性の問題から2014(平成26)年に廃止された後、品川区とまちづくりの協議が始まり、約10年の時を経て再開発が完了しました。
大井町が鉄道の拠点になったのは1915(大正4)年、新橋(汐留)駅にあった車両工場が移転してきたことに始まります。大崎~大井町間には明治期に山手線と東海道線の短絡線が整備されており、これに隣接する形で建設されました。
大井工場は客車、貨車、電車の新造、修繕が行われ、当時の電化路線(中央線、山手線、京浜線)全ての電車を受け持ちました。大正期に鉄道利用数が急増したことで、当初1~2両編成だった電車は4両、5両と長編成化し、大井工場の修繕車両数は1915(大正4)年から1919(大正8)年の4年間で11倍に増加。また第一次世界大戦で海外製品の輸入が途絶した際は電車用モーターの複製品を量産し、車両国産化の大きな一歩となりました。
そんな大井町に山手線の車両基地が建設されたのは、1967(昭和42)年のことです。それまで山手線の車両は、京浜東北線の蒲田電車区、下十条電車区と池袋、品川の留置線に分散配置していましたが、京浜東北線の10両化で収容量の不足が見込まれていました。
都心の“高層化”を体現
大井工場の近代化整備計画にあわせ、大井町に車庫建設が決定しますが、車庫に使える敷地は限られています。そこで1階に留置線13本と検査線、修繕線、洗浄線、2階に留置線24本を備える上下2層構造として最大490両を収容しました。
南北線王子車両基地や大江戸線木場車両検修場など、2層構造の地下車庫や、銀座線上野車両基地や都営新宿線大島車両検修場など地上と地下の2層構造はありますが、地上2階建ての大規模車両基地は非常に珍しい存在です。
大井工場の集約再配置で生み出されたスペースは福利厚生にも充てられ、南側敷地の一部に12階建ての職員宿舎用アパート6棟を建設しました。これが広町社宅です。多数の職員を抱える国鉄はこれまでも様々な社宅を整備してきましたが、この規模の高層建築は初めてでした。
これを担当したのが後に建築家、都市計画家として活躍する国鉄技師の馬場知己です。ある日、“新幹線の生みの親”こと島秀雄技師長に「なぜ鉄道の建築屋は4階以上のアパートを作らないのか?」と問われた馬場は、芝公園で12階建てを検討したが緑地指定の関係で認可されなかったと返答しました。
島は席を立って大井工場の図面を持ってくると、南側3分の1に赤鉛筆で線を引いて「馬場さん、南側は君にあげましょう。ここに理想とする高層アパートを建ててください」と言ったのです。
国鉄は1960年代末、都心集中による鉄道の混雑を解消するため、都心100km圏に新幹線を建設してベッドタウン開発を行う「通勤新幹線構想」を検討しますが、馬場は反対派の筆頭でした。彼は莫大な費用を投じて郊外化を促進するより、高層アパート建設など都心の高層化を進める方が効率的と主張します。
馬場は東京23区だけで有休国有地の総面積が1250万平方メートルあり、ここに住宅公団の7階建てアパートを建設すれば60万戸以上の住宅を供給できると述べています。通勤新幹線は1路線あたり6万人の通勤人口を想定していたので、実に10路線分の人口規模です。
その意味で、広町社宅は彼の持論を体現する存在でした。さらに2階建ての車庫は将来、3階以上に高層化し、社宅を建設できる構造とされました。1970(昭和45)年に入居開始した都営住宅西台アパート(東京都板橋区)は、都営地下鉄6号線(都営三田線)志村車両基地直上の人工地盤に建設したものですが、同様の形態を想定していたのでしょうか。
その後、東京都心の高層化が進んだ一方、バブル期にかけて郊外化は都心70km圏まで進展しました。しかし2000年代以降は都心回帰が進み、複合ビルやタワーマンションなど高層建築の建設が加速しました。広町社宅跡地に誕生した地上26階、115mの複合ビル大井町トラックスは、国鉄技師が予見した未来そのものなのかもしれません。