浜松駅から北へ大通りを歩くと、遠州鉄道の廃線跡が見えてきます。かつてこの線路は街の中心を横断し、途中駅で1回折り返してから新浜松駅に至る特徴的な経路でした。なぜこのような複雑なルートとなったのでしょうか。
周囲には鉄道があったことを示す碑も
人口約78万人を擁する静岡県最大の都市・浜松市。この中心にある浜松駅前から北へ広小路通りを800mほど歩くと、突然舗装の模様が変わる場所に出会います。何気なく眺めていると、ただの模様違いにしか感じないこの場所ですが、かつては鉄道が走っていたのです。
この廃線跡が見られるのは、市民の活動拠点施設「クリエート浜松」のすぐ北側です。鉄道の最寄り駅は遠州鉄道鉄道線の「遠州病院駅」です。遠州鉄道鉄道線は、今でこそ広小路通りと同じようにまっすぐ南へ進み、JR浜松駅に隣接する新浜松駅に至りますが、昔は違っていました。遠州病院前駅付近には、かつて「遠鉄浜松駅」や、広小路通りを横断する踏切が存在しました。
浜松市中心部は大規模な都市開発が行われ、この大きな広小路通りに踏切があったことは今では見る影もありません。しかし、この線路を模した舗装の近くには「遠鉄浜松駅跡」「遠鉄旧線路跡」と書かれた目印も立っており、遠鉄電車が往来していたことをしっかりと教えてくれます。
この旧線が使われていたのは、1985(昭和60)年11月30日までです。旧線は浜松の街を南東方向へ向かい、馬込川手前の遠州馬込駅へ至り、そこでスイッチバックをして新浜松駅へ向かうという特徴的な経路でした。直接新浜松駅へ向かうのではなく、遠州馬込駅で方向を変えていたのです。
なぜこのような複雑な経路が採用されていたのか。それには国鉄との貨車のやり取りが関係していました。
廃線跡であることを物語る街なかの緩いカーブ
もとをたどれば、遠州馬込駅(開業当時は馬込駅)は1909(明治42)年に大日本軌道浜松支社中ノ町線の駅として開業しました。1924(大正13)年2月、東海道本線の浜松駅と貨車のやり取りを始めます。
遠州馬込駅は貨車のやり取りには便利だったものの、旅客駅の浜松駅からはやや離れた所に位置していました。このアクセスを向上させるため、1927(昭和2)年9月には旅客駅の浜松駅最寄りとなる新浜松駅(開業当時は旭町駅)が開業します。
ただし、ルートはすでに開業していた遠州馬込駅からの延伸となることから、ここでスイッチバックを行い新浜松駅へ向かうという、特徴的な運転経路が出来上がったのです。
国鉄浜松駅の貨物扱いは、東海道本線の高架化に先立ち新設された西浜松駅へ、1976(昭和51)年10月に完全移管されます。遠州鉄道では、この年の4月1日に貨物扱いを終了。国鉄との貨車のやり取りもなくなった遠州馬込駅は、その後もスイッチバックの駅として残りますが、助信~新浜松間の高架化完成により1985(昭和60)年11月30日いっぱいで営業を終了し、現在のルートに切り替わりました。
旧線が走っていた場所では、かつての面影がほとんどなくなっています。しかしじっくり観察すると、不思議な形の建物やゆったりとしたカーブを描く道路など、鉄道の雰囲気をそこかしこに感じることもできます。
例えば、遠州病院駅のすぐ北東側からクリエート浜松側へ至る歩道は緩やかに左へカーブしていますが、これはまさに鉄道が走っていた跡です。この歩道を道なりに進むと、冒頭で紹介した遠鉄浜松駅跡に到着します。
また、この歩道の入り口から振り返ると、途中で緩やかに曲がる駐車場を見ることができます。これも遠州鉄道の廃線跡で、わずかに折れ曲がるところが鉄道の廃線跡ならでは。
浜松市楽器博物館にも特徴的な形状が見られます。建物の北東側が不自然に面取りされたようになっており、柵と隣接するバイクの駐輪場が緩やかな曲線を描いているのです。博物館の建設は新線への切り替え後しばらくしてからですが、鉄道が走っていた雰囲気を色濃く感じることができます。
助信~新浜松間の高架化により、遠州鉄道鉄道線は全線の所要時間が4分短縮しました。都市開発によりすっかり影を潜めた感のある旧線跡ですが、ふとした名残から当時に思いを馳せてみるのも一興かもしれません。