「世界で最も美しい巡洋戦艦」との呼び声も
1936(昭和11)年の12月8日は、ドイツ海軍の巡洋戦艦「グナイゼナウ」が進水した日です。
同艦は、シャルンホルスト級巡洋戦艦の2番艦として建造されましたが、「悲劇の戦艦」と形容できます。なぜなら、“自身”を生み出した祖国のトップ、ヒトラー総統によって「撃沈」されたからです。なぜ、そのような結末に至ったのでしょうか。
それをひも解くには、時計の針を第1次世界大戦の時にまで巻き戻す必要があります。当時、ドイツ海軍は、イギリス海軍に次ぐ世界第2位の規模を誇る大艦隊を擁していました。しかし同大戦で敗れた結果、母国ドイツは帝政を捨て、ヴァイマール共和国として再出発することになります。そして戦後処理を定めたヴェルサイユ条約によって、保有する軍備を厳しく制限されてしまいました。
その結果、新興のヴァイマール共和国海軍は旧式戦艦6隻、旧式軽巡洋艦6隻、駆逐艦12隻の保有しか認められず、代替艦の新造にも、厳しい制約が課せられました。しかしドイツの海軍関係者は将来の艦隊再興に希望を託して、世界でも類を見ない優秀なポケット戦艦を生み出します。
続いて巡洋戦艦の建造にも着手。これがシャルンホルスト級で、将来のドイツの再軍備を見越した設計が施されていました。同級はきわめて優美な船型から、「世界で最も美しい巡洋戦艦」と称されることもあったようです。
ちなみに、ドイツ海軍は敵を混乱させる目的で、シャルンホルスト級以降に建造したアドミラル・ヒッパー級重巡洋艦やビスマルク級戦艦のシルエットを、故意にシャルンホルスト級に酷似するよう、デザインしています。
ヒトラーの鶴の一声でお役御免に
シャルンホルスト級巡洋戦艦は3連装28cm砲塔3基を備え、最大速力約31.5ノット(約58.34km/h)の高速を誇りました。そして1939年に第2次世界大戦が勃発すると、「シャルンホルスト」「グナイゼナウ」の2艦揃って、通商破壊戦(シー・レーン遮断)に投入されます。ところが潜水艦(Uボート)や仮装巡洋艦、ポケット戦艦のような大戦果に恵まれず、特に「グナイゼナウ」は事故や戦闘、イギリス空軍の空襲などにより、連続して損害を被ってしまいます。
きわめつけとなったのは、1942年12月31日のバレンツ海海戦でした。援ソ連輸送船団を撃沈しようと出撃したドイツ水上戦闘艦隊が、イギリス海軍の護衛艦隊に阻止されてしまったのです。この結果を報告されたヒトラーは激怒。赫々たる戦果をあげ続けているUボート艦隊と比べ、水上戦闘艦隊は被害ばかり被ってろくな戦果をあげていないではないか、と考えたのです。
終いには、ヒトラーは大型水上戦闘艦など役立たずの金食い虫であると結論付け、廃棄命令を発します。彼にしてみれば、そんな無用の大型水上戦闘艦は順次解体し、その主砲は沿岸砲台に転用すればよいというものでした。
その結果、ちょうど修理中であった「グナイゼナウ」が、その嚆矢として解体されてしまいます。
「グナイゼナウ」には前述したように3連装の主砲塔が3基備わっていましたが、1番主砲塔は解体され、3門の主砲は単装砲に分割されてオランダ沿岸に配備されました。
一方、2番主砲塔と3番主砲塔は、解体されず砲塔ごと要塞砲に転用されることとなり、前者はノルウェーのフィエル沿岸要塞に、後者は同国のアウストロット沿岸要塞にそれぞれ配置されています。
こうした流れを鑑みると、「グナイゼナウ」は味方のトップたるヒトラーによって「撃沈」されたと言えるでしょう。
ちなみに、残った船体は、大戦末期にゴーテンハーフェン(現グディニャ)を閉塞するため、港口に沈められています。
悲劇の巡洋戦艦「グナイゼナウ」。その遺産のひとつである3番主砲塔は、今日もアウストロット沿岸要塞跡で見学することができます。