幸運の駆逐艦「雪風」で生まれた子たち 名前には「ならでは」の漢字が! 運んだのは “日本の希望” だったか

旧日本海軍の駆逐艦「雪風」といえば、太平洋戦争を生き抜いた強運で知られる艦です。戦後、外国から日本人を運ぶための復員輸送艦に転用された際、なんと艦内で3人の子供が生まれ、その強運にあやかった名前が付けられていました。

甲型駆逐艦38隻のうち生き残ったのは1隻のみ

 旧日本海軍が使用した駆逐艦「雪風」は、陽炎型駆逐艦の8番艦として1940(昭和16)年1月20日に竣工しています。陽炎型駆逐艦は「雪風」含めて19隻建造されましたが、改良型といえる夕雲型駆逐艦19隻と合わせ38隻造られた甲型駆逐艦のうち、太平洋戦争を生き抜いたのは「雪風」ただ1隻のみ。大戦を最初から最後まで戦い抜き、大きな損傷も受けることなく終戦まで残った同艦は「幸運艦」と呼ばれています。

 ただ、驚くべきは、この「雪風」艦内で赤ちゃんが3人も生まれていることでしょう。いったい、どのような状況下、軍艦のなかで赤ちゃんが誕生したのでしょうか。

 振り返ると大戦中から「雪風」は海軍内部で「幸運艦」として知られていました。とはいえ、15回以上もの戦闘に参加し続けていたため、まったくの無傷ではなく、軽微な損傷は何度も受けており、死傷者もわずかながら生じていました。

 そのようななか、1945(昭和20)年8月15日を迎えます。これにより、主要な戦闘は停止し、なんとか「雪風」は大戦を生き抜くことができました。なお、戦争末期の厳しい状況下にもかかわらず、「雪風」は乗組員たちの努力もあって、きわめて良好な状態を維持していました。

 それから約2週間後の同月26日、「雪風」は戦争の本格的な終結にともなって第1予備艦とされます。ちなみに第1予備艦とは、ごくわずかな整備で出動可能な状態が維持され、乗組員もほぼ全員が揃ったコンディションの艦のことです。

 1945(昭和20)年12月1日、敗戦により海軍省は第2復員省へと改組され、状態のよかった「雪風」は復員輸送艦に指定されます。できるだけ多くの復員者を乗せるため、魚雷発射管や前後の主砲塔はすべて撤去され、その跡にはデッキハウスが増設されました。

1万3000人以上もの日本人を本土へ

 翌年(1946年)2月に改装が終わると、「雪風」はすぐに復員業務に携わります。そして外地に取り残された日本人を祖国へと送り届けるべく中国本土や、南太平洋のラバウル、ポートモレスビー、東南アジアのサイゴン(現ホーチミン)やバンコク、そして沖縄本島の那覇など、かつて日本軍が戦った地域を何度も往復し、多くの同胞を日本まで運んだのです。

 復員輸送艦のなかには、敗戦の悪影響を受けて乗組員の規律が緩んでいる艦もありましたが、「雪風」は全乗組員が一丸となって乗艦した復員者/引揚者を慰安しました。一方で、「雪風」があまりにきれいに整備されていたので、戦争ではまともに戦わなかったのではと、訝る者もいたといいます。

 かくして「雪風」は、1946(昭和20)年12月末まで復員業務に従事。15回もの航海を行いましたが、祖国の再興に向けて一筋の光明が差した海路もありました。艦内で、なんと赤ちゃんが生まれたのです。

 生まれたのは3人で、別々の航海でひとりずつなので3度も出産があったことになります。

 最初に生まれたのは男の子で、博多に向かっている「雪風」で生まれたため「博雪」君と名付けられたそうです。その後、別の航海で生まれた女の子は2人。それぞれ「雪子」ちゃん、「波子」ちゃんと命名されたと伝えられています。

 戦後、復員輸送艦になった「雪風」が運んだ復員者/引揚者の数は1万3000人以上だとか。そのなかに前出した3人の赤ちゃんが含まれています。同艦は、敗戦による失意の引揚の最中に「日本の明日への希望」も運んだと言えるでしょう。

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