
空襲から命を守るため、戦時中に全国各地で築かれた防空壕。その中には、全国唯一とされるSL(蒸気機関車)を隠すための防空壕もあったのです。
鉄道の要衝 米原駅の知られざる戦争の記憶
滋賀県の米原駅は、県内で唯一新幹線が停車する駅として広く知られています。しかし米原駅の近くに、鉄道に関連した戦争遺構があることはあまり知られていません。それは「岩脇蒸気機関車避難壕」です。
米原駅は、東西に走る東海道本線、北へ延びる北陸本線、そして地元の近江鉄道が乗り入れる交通の要所です。太平洋戦争では軍需物資や兵員の輸送拠点となり、その重要性から駅や停車する列車が連合軍の攻撃目標となりました。実際、戦争末期には艦載機による空襲が行われ、死傷者も出たのです。
こうした空襲から蒸気機関車を守るため、「岩脇蒸気機関車避難壕」が築かれました。米原駅から北へ約1.6km、東海道本線の路線脇にある岩脇山のふもとにトンネルを作り、その中に機関車を丸ごと入れて空襲から逃れる計画でした。当時、空襲から逃れるための防空壕や避難壕は日本各地に作られましたが、列車専用はここだけとされます。
この計画が動き出したのは、物資不足が深刻化した戦争末期のこと。工事はつるはしやスコップを使った手作業で進められたため、完成する前に終戦を迎え、避難壕は未完成のまま放置されました。
有志の熱意で遺構がよみがえった!
避難壕用のトンネルは、南北方向に2本。東側のトンネルは全長約130mで山を貫通していますが、西側のトンネルは南北の両端から掘り進められたものの、中央部分が未掘削のままになっています。
トンネルの断面は場所によって形が不均一で、列車を引き込むための線路などの設備も整備されていません。途中で放棄されたとはいえ、すべてが手作業だと考えれば、この避難壕に注がれた多くの人々の労力がうかがえます。
終戦後トンネルは管理されることなく、長らく放置されてきました。内部は不法投棄されたゴミや土砂で埋まり、入り口部分がかろうじて確認できるだけの荒れ果てた状態が続いていました。
その状況が一変したのは2008年のこと。地元住民が組織した「岩脇まちづくり委員会」によりトンネル内の清掃と整備作業が実施され、2008年10月から2009年8月までの作業で、ダンプカー150台分ものゴミが搬出されました。トンネルの入り口には見学用の通路や看板も設置され、入り口付近から内部の様子を観察することもできます。
この避難壕を整備した目的について、「岩脇まちづくり委員会」は「戦争の悲劇を風化させないために戦争の遺跡として保全するため」としており、南側入り口付近には小さな資料館も開設されています。資料館に立ち寄って展示資料に目を通し、実際にトンネルを見て回れば、「岩脇蒸気機関車避難壕」や太平洋戦争の歴史について実感できるでしょう。