老舗証券会社の創始者の始まりは、野心により父親お金を無断で持ち出し出奔から 【シリーズお墓から郷土の偉人発見 VOL.22】

日経平均株価がバブル崩壊前の数値に戻るなど、総選挙を前に日本市場は活気がありますが、今回は兵庫県尼崎出身で丸三証券創始者の長尾秀一さんを紹介します。

長尾秀一さんは兵庫県尼崎の古刹(こさつ・真宗妙光寺、楳泉(うめいずみ)家の次男に生まれました。前名は楳泉元遷。1900(M33)16歳のときに「人生50年、なにか成したい」という漠然とした野心から、父親の文箱から15円無断で持ち出し、友人と2人で家出、横浜に向かい、 横浜の仲買店の小僧となりました。儲かったお客から小遣いをもらい、自身も相場を張ってみたいという気持ちになり、合百(賭博の一種)で勝負するようになり、その面白さに惹かれていったといいます。 生糸や株の仲買店を転々とするも、生糸暴落で店がつぶれ、24歳のときに「独立して相場を張っている方が安泰ではないか」と相場師を志願し、米相場の町、東京蛎殻町に上京しました。貯金200円ばかりの金を米穀相場に注ぎ込んだが、無一文となってしまいました。

 日雇い労働でその日をしのぐ日々を続けている時に、横浜時代の知人の野口清三郎さん(後に山文証券会長)の世話で開業を間近に控えた兜町の丸三商店に入る。1910年開業の丸三商店は川北徳三郎さん、南波礼吉さん、高井治兵衛さんが1万円ずつ出資ししてできた店で、代表者は川北の義兄の多田岩吉さんでした。なお、社名の由来は創業者が友人の三人だったことから丸三という名前がつけられたということです。長尾さんは丸三商店では副支配人として活動してました この頃、医者の長尾学の長女と結婚し、婿養子となったのを機に、父の旭秀の一字を拝借し、秀一を名乗ることにしたということです。

 第一次世界大戦の勃発で空前の株ブームが到来し、それに便乗して巨額の金を手にする。しかし、1916年暮れ、「ドイツが休戦申し入れ」というデマで新東株が460円から103円に暴落し儲けを全て吐き出す結果となってしまいました。1920年も多田岩吉さんが廃業し、吉田政四郎さんがこれを継承するにあたり支配人となるも、吉田政四郎は1925年に亡くなってしまいました。業務を継承した長尾さんは一般取引員の資格を取しました。1944年には入サ証券を合併し、丸三商店を丸三証券に改称、株式会社に組織変更しました。自身は社長に就任しまし、長男の長尾貫一さんを専務に据えました。

1947年には長男の貫一さんに社長を譲り会長に就任しました。伊東に隠棲するが、喜寿を迎えても、株の動きを見ないと気持ちが悪いという理由で、毎週兜町にやってきたといいます。 自伝に『兜町好日』があります。享年は82歳でした。

 信条は、(1)人生に変化を富ませ、人生の培養になる金銭に対しては率直でなくてはいけない。(2)株がダメな場合は土地を買っておく。(3)上昇している時に「この辺だ」というところで株数を減らしていく。ただし、「この辺だ」が奈辺であるかが難しく、これこそ人生の妙。(4)金銭を無視しがちな人、無視したような態度の人は嫌いである。

【墓所】
*倉状に「長尾家塋」。右側に墓誌があり、戒名は「一心一向院(誠向院)釋圓寂居士」です。妻は格子。長男の長尾貫一(同墓)も丸三証券の社長などを務めた。

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◆取材協力
歴史が眠る多磨霊園
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/
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