東京駅の「八重洲」実は「外国人の名前」だった!? 日本人妻もいた「謎の異国のサムライ」とは

東京駅八重洲口で知られる地名「八重洲」。実はその由来は外国人の名前でした。

砂浜があったわけではなかった

 東京駅の東側は「八重洲口」という名称がついています。住所地名としても南北に伸びる「八重洲一丁目・二丁目」があります。 昔はここに砂浜が広がっていたのか……と想像が広がりますが、実はこの「八重洲」という地名、オランダ人の名前が由来なのです。その人物とは、江戸時代初期の日本にいた「ヤン・ヨーステン」です。

 ヤン・ヨーステンは40代の時に、オランダから南米最南端のマゼラン海峡を経由してアジア方面へ向かう通商船団に乗り込みます。5隻は悪天候や内紛などでちりぢりになり、ヨーステンの乗った「リーフデ号」が九州に漂着します。リーフデとはオランダ語で「愛」という意味です。 折しも1600年、日本が江戸幕府に統治される直前のことでした。ヨーステンはその後、船ごと江戸へ呼び出され、徳川家康に欧州情勢を説明。信頼された彼は、通訳や外交顧問として住まいを与えられ、「耶楊子」という名前とともに帯刀も許されて、旗本並みの扱いを受けていたといいます。日本人と結婚して子供もいました。 江戸幕府はキリスト教の布教を植民地拡大と結び付けて強い警戒心を抱き、長い「鎖国」の時代に入ります。しかしオランダは通商が引き続き許されました。その一因には、「キリスト教でも宗派によって違う」などと説明したヨーステンらに対する、幕府の信頼感が作用したとも言われています。 外国人が珍しかったのか、いつしか彼の住居のあたりは「やよす」と呼ばれ、定着していきました。正式な地名として「八重洲」の漢字が現れるのは、明治に入ってからのことです。 この時の八重洲町は内堀から外濠(八重洲口のあたり)まで横に長い区域でしたが、関東大震災後の町名再編で、東京駅を基準に「西は丸の内、東は八重洲」という現在の配置になりました。 なお、それまで東京駅といえば、赤レンガが美しい丸の内口の駅舎しかありませんでした。当時はまだ外濠があり、八重洲側は濠沿いに貨物ヤードが広がっていたからです。八重洲橋をわたって跨線橋で丸の内口まで行けましたが、さすがに不便すぎるということで、戦後になって「八重洲口」の駅舎が建設されることになったのです。 ちなみに、ヤン・ヨーステンが住まいを与えられた場所は、和田倉門の近くと言われています。もちろん今でいうところの「丸の内側」ですが、いかに東京駅という存在が現在の私たちの「地名認識」に大きな影響を与えているかがわかります。 ヤン・ヨーステンは1623年、オランダへの帰途に寄港先でトラブルに遭い、日本へ引き返す途中で船が難破し、帰らぬ人となりました。

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