終点目前で“関東大震災”発生 「駅の物品を載せろ」「うちの家財道具も」 避難運転の結末は

100年前の今日、関東大震災が発生しました。首都圏で甚大な被害が生じましたが、あと1歩のところで被災した列車がありました。下関発東京行き急行です。結果的には灰燼に帰しましたが、死傷者は0でした。

8620形蒸気機関車に牽かれた14両編成

 関東大震災(1923年9月1日)における鉄道の被害はどのようなものだったでしょうか。ここでは当時の列車の代表格として、東海道本線の優等列車、下関発東京行き急行6列車のたどった運命について見てみましょう。 当時の列車に愛称名はなく、6列車の「6」とは列車番号です。和食堂車も連結した14両編成の同列車が、先頭の8620形蒸気機関車に牽かれて、東京駅第3番ホームへと12時5分に到着する予定でした。正午前の同ホームには、出迎える人たち40名ほどが集まっていました。

 11時58分、地鳴りと共に激震が始まります。東京駅第3番ホームでは、鉄製の柱や梁が折れ、ホームを覆う屋根が、丸の内側の5番線方面へ傾くようにして落下してきました。その時ホームにいた駅員(助役と警手)がとっさに取った行動は、以下のようなものでした。 彼らは出迎え客たちに向かい、6番線側へと腕を振って「こっちの線路に飛び降りろ」と大声で叫んで回ります。出迎え客たちはその声に後押しされるようにして次々に線路に飛び降ります。年配の方を抱きかかえて線路に降ろした人もいました。そのおかげで、ホームの屋根が完全にぺちゃんこになりながらも、わずか2名の軽傷者を出しただけで済んでいます。 ホームにいた駅員にとってはマニュアルにない不測の事態でしたが、この時の対応が評価され、鉄道省から功績賞を受けています。 激震発生時の各列車の運行状況を見ておきましょう。現在の東京都、神奈川県、千葉県、埼玉県南部、茨城県南部、静岡県東部の全域または一部にあたる国鉄12路線の被害区間を、125本の旅客列車(電車も含む)・貨物列車が走っていました。そのうち27本の列車が脱線・転覆・流失の被害に遭っています。

急行6列車は新橋駅で運転打ち切り

 しかし、当時省線電車と呼ばれていた現在の山手線、京浜東北線、中央線では、脱線した列車はひとつもありませんでした。列車被害が多発したのは、震源に近い神奈川県南西部や千葉県房総半島南部の路線においてです。 下関発急行6列車はといえば、地震発生時、東京駅のひとつ手前である新橋駅に停車中でした。同列車もこの段階ではまったくの無傷です。

 新橋駅には、1914(大正3)年に竣工したルネサンス様式の赤煉瓦駅舎がありました。辰野金吾設計の東京駅赤煉瓦駅舎を小ぶりにした印象のもので、こちらの設計は鉄道省によるものです。地震発生時、新橋駅赤煉瓦駅舎からは、石と鉄鋼がきしむような不気味な大音響がしたといいます。急行6列車はこの先の運転を取りやめ、乗客は全員新橋駅で降ろされます。 関東大震災による被害は、揺れによる建物の倒壊より、広域火災によるものが多大でした。死者(行方不明者含む)約10万5000名のうち、火災による死者が約9万1000人にものぼっています。 地震発生直後から、東京の下町一帯の各地や有楽町付近などで火の手が上がります。新橋駅では、夕暮れから風向き変わり、火災が迫ってくる危険が出始めます。同駅では、金庫、壁にかけた大きな時計、預かっている多数の手小荷物をはじめ、駅にあるあらゆるものを停車中の急行6列車へ積み込みました。 20時頃、ついに猛火が駅までやってきます。新橋駅舎2階には、東京駅の「精養軒」や万世橋駅の「みかど」と並び称された「東洋軒」(洋食堂)がありましたが、強風に煽られて東洋軒の煙突へと大きな火玉が落ちてきました。 駅長の杉田は消火活動を諦め、駅員に「総員引き揚げ」を命じ、ホームに停車していた急行6列車に駅員を乗り込ませます。

駅長「転落してもいいから進行せよ」 発言のワケは

 20時30分、14両編成の列車は、機関車が後ろから押すバック運転で、火の手とは反対方向の品川方面へと、ゆっくり避難運転を始めました。 300mほど進むと、線路上で人々が叫んでいて、列車は火と人との間で立ち往生となります。赤坂方面から火災に追われて避難してきた市民たちで、列車は彼らとその家財道具を乗せて再び発車します。

 しかし浜松町駅付近まで進むと、火はその先の金杉橋に延焼していて、もはや進むことができなくなります。線路周辺は火に包まれ出し、車中の避難者は荷物を車内に残したまま脱出、品川方面へと逃げ死傷者はゼロでした。 23時頃、この避難列車は猛火に襲われ、鉄の台車のみを残すだけの無残な姿へとなり果てます。当時の客車は木造だったためです。 杉田駅長は後に、「急行6列車を金杉橋から転落させてもいいから進行させようとした」と、『鉄道時報』の記者に語っています。そうすれば、列車に載せた新橋駅の物品は焼失せずに済んだというわけです。ただし「不幸にして機関車の水が欠乏して動かせなくなったので、やむなく(総員が列車から)立ち退いた」とも語っています。 列車を橋から水中へわざと落とすという奇想天外な行為が良策だったかどうかは別として、せっかく駅の物品を列車に積み込んだのに、それが全焼してしまった悔しさが伝わってくる言葉です。 関東大震災では、被害に遭った列車や駅で、平時では考えられないような出来事、人々の判断が数多くありました。それらの中には、今後起きるであろう震災への備えとして、示唆に富んだものが含まれています。

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