戦艦大和と並ぶ極秘兵器は武装全部盛り その名は「鉄竜」 中国人が恐れた“陸上軍艦”とは

戦艦「大和」が旧日本海軍の秘密兵器なら、旧日本陸軍のそれには何があるでしょうか。満州事変以降、大陸で中国人から「鉄竜」と呼ばれた装甲列車は、謎多きまま歴史の舞台から消えていきました。

海の「大和」 陸の…?

 旧日本海軍はアメリカと艦隊決戦をするために、秘密兵器として戦艦「大和」を建造しました。旧日本陸軍も中国大陸でソ連と戦う秘密兵器をいくつも用意していました。敵防御陣地前面という危険地帯で活動する、現代の無人地上車に相当する遠隔操作装甲車までありましたが、秘密兵器の多くは真価を発揮することなく消えていきました。そのひとつに、中国人が「鉄竜」と呼んだ「九四式装甲列車」があります。

 装甲列車はその名の通り、鉄道を走る列車に装甲と武装を施して完全に軍用化したものです。旧日本軍が最初に装甲列車を使用したのは1918(大正7)年のシベリア出兵時ですが、この時は制式装備ではなく、赤軍からの鹵獲(ろかく)車と現地急造車でした。 鉄道は後方の輸送専門と思われがちですが、シベリア出兵当時は自動車や戦闘車両が未発達で道路環境も悪かったので、鉄道が作戦の主線となりました。兵力を最前線に送り込み、直接戦闘に関与したのです。 その後の満州事変では、敵味方双方が歩兵や騎兵、砲兵を積載した列車で機動。目標は敵の列車や線路、駅付近の敵兵力となり、自軍の列車で敵列車に肉薄し、線路の破壊や反撃の余裕を与えない速力と火力で敵を補足する鉄道戦が展開されました。「鉄路の電撃戦」といえるかもしれません。 こうした戦訓から、旧日本陸軍では装甲列車の必要性は認識されたものの研究は進まず、相変わらず鹵獲車や現地改造車で仕様は雑多バラバラでした。鉄道事業を経営した国策会社の南満州鉄道株式会社(満鉄)でさえ、独自の自衛用の装甲軌道車を作って装甲列車を編成することもありました。

装備てんこ盛り 大きすぎて限定運用に

 陸軍参謀本部は1932(昭和7)年、統一的な「臨時装甲列車」(別呼称は軽装甲列車)を計画します。「臨時」というのは有事の際、現地で入手可能な資材を使って満鉄の協力も得ながら製作できることを基本コンセプトとしたからです。装甲板も現地で工作しやすい平板の鋼板を組み合わせたので、角ばった箱型となりました。 旧陸軍のやりたいことを全部盛りしたため、遠距離砲戦のできる砲兵車から近接戦闘用に歩兵を添乗させた歩兵車、修理資材を積載する材料車から炊事車まで、12両という編成になりました。動く要塞といってもよい迫力ですが、大きく重すぎて走行できる路線が限られてしまい、使い勝手は良くなかったといわれます。それでも20編成前後が作られ、標準的な旧日本陸軍の装甲列車となります。

 軽装甲列車をコンパクト化して火力支援に特化し、1934(昭和9)年に制式化されたのが「九四式装甲列車」(別呼称は重装甲列車)です。編成は1号車から「警戒車」「十四年式10cmカノン砲の火砲車(甲)」「十四年式10cmカノン砲の火砲車(乙)」「7.5cm野戦高射砲2門の火砲車(丙)」「指揮車」「機関車」「炭水車」「電源車」の8両編成でした。編成から分かるように、運用は1号車先頭が基本で、前後どちらでも同じよう使えるというわけではありませんでした。 武装は火砲車のほか周旋回できる砲塔、高射も平射もできる十四年式10cmカノン砲を2門、7.5cm野戦高射砲2門、各車に九二式重機関銃計14挺というもの。1個大隊並みの火力を持ち、装甲厚は側面10mm、そのほかは6mmでした。他に30cm探照灯、500kmまで通信可能な無線機を備えました。完成したのは1編成のみで、車両の分割運用はできませんでした。

威圧感は与えたが… 本領発揮はできず

 九四式装甲列車は砲火力を全て前方に集中できるようになっていたのが特徴です。歩兵を直接支援する突撃砲に近いといえるでしょう。平坦な高規格軌道なら、最高80km/h走行も可能だったといいますから、兵員輸送列車と組み合わせた装甲列車隊なら、戦車にも勝る「電撃戦」ができたかもしれません。 旧陸軍は九四式装甲列車を「極秘」に指定して、存在自体を軍事機密としました。ちなみに「臨時装甲列車」も秘密指定されています。九四式装甲列車の威圧感は圧倒的で、日本軍将校も陸上軍艦のようだと評し、中国人は「鉄竜」と呼んだそうです。

 しかし九四式装甲列車が完成したころになると、装甲列車隊も満州事変の時のような積極攻勢的な「鉄道戦」よりも、抗日ゲリラに対する鉄道守備が主任務となり、高い戦闘力は持て余し気味でした。 抗日ゲリラにとっては「鉄竜」と戦っても勝ち目がないことは明らかなので、不定期でもパトロール運行するだけで襲撃をあきらめさせる抑止力にはなったようです。活動記録がほとんど残っていないのは、パトロール運行しかなかったことを示しているようです。抑止力を発揮して戦闘を起こさせず、線路を護ったことは戦果ですが、1編成だけではその抑止力も限定的でした。 終戦後は中国軍に接収されたと思われますが行方はよく分かっていません。九四式装甲列車は存在が秘匿された兵器でしたが、その威力を発揮することなく消えていきました。スケールは違いますが、時代に置いて行かれた戦艦「大和」にも重なって見えてきます。

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