「戦争が終わった日」日本の鉄道はどう動いていた? 壊滅状態のインフラでも変わらなかったこと

1945年8月15日、日本はポツダム宣言に受諾し、これによりアメリカやイギリスなどと戦った太平洋戦争(大東亜戦争)は終結を迎えます。このとき鉄道はどういう運行状況だったのでしょうか。

明治からずっと日本の鉄道は“定刻主義”

 1945(昭和20)年8月15日、日本はポツダム宣言に受諾し、これによりアメリカやイギリスなどと戦った太平洋戦争(大東亜戦争)は終結を迎えます。昭和天皇によるラジオでの玉音放送で国民に日本の降伏が伝えられたのはこの日の正午でしたが、当日の鉄道はどのような運行をしていたのでしょうか。

 結論からいうと、日本全国の鉄道網は“機能する”場所に関しては正確に動いていたそうです。 当時の人の証言としては、紀行作家の宮脇俊三氏が『時刻表昭和史』という著書のなかで、山形県の米坂線 今泉駅前広場で玉音放送を聴いていた際、定刻通りに汽車が来たと記憶しており「昭和二十年八月十五日正午という、予告された歴史的時刻を無視して、日本の汽車は時刻表通りに走っていたのである」とあり、「汽車が平然と走っていることで、私のなかで止まっていた時間が、ふたたび動きはじめた」と言葉を残しています。 敗戦直前の日本の鉄道網はかなりの被害を受けていました。1945年5月25日夜に行われた東京に向けての最後の大空襲では、国鉄、私鉄線の駅や車両が多く焼失し、首都圏への輸送網は大打撃を受けました。その後は軍需施設などが地方に散らばったとみたアメリカ軍は、終戦までに、労働力の供給遮断を目的として各地方の駅を中心に爆撃、終戦前日8月14日にも埼玉県の熊谷市、群馬県の伊勢崎市が、駅を中心とした市街地に空襲を受けていました。 しかし、そうした甚大な被害にも関わらず、戦争が終わったということで、一刻も早く自分の故郷に帰りたい疎開者が殺到したのか、玉音放送翌日の16日には、当時6大都市といわれた東京、横浜、名古屋、京都、大阪、神戸への乗車券発行が停止されます。 当時の読売新聞にも「特別な事情ある者は駅長に申し出れば乗車券は発行されるが、発行枚数は極めて少ないから止むを得ない緊急旅行者以外はこの際やめるように」と記載があります。 さらに、同年8月20日にはなんとかインフラ維持をしている状態にも関わらず、中央本線、東北本線、奥羽本線で臨時列車を増発することが決定。乗車制限は継続していましたが、それでも、人の流れが多かったようで、「近距離の輸送は貨物列車に旅客を収容する」と当時はアナウンスされていたようです。 その後は、進駐してきたアメリカ軍の将兵や物資の輸送、旧植民地や占領地からの引き上げ者などの受け入れなど、日本の鉄道は休むことなく、日本復興の先陣に立って働くことになります。

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