偶像崇拝を禁止する仏教とそれでも敢えて求める民衆

「鰯の頭も信心から」と言うが、実際には歴史ある伝統宗教において神仏そのものではなく、人間(教祖・聖者など)、仏像、神像などの「モノ」を崇める偶像崇拝は最大のタブーである。それでもひたすらに救いを求める民衆は祈る対象の具体化、具現化を願った。

■ドローン仏と具現化された来迎図

2022年11月23日。京都の浄土宗寺院・龍岸寺で「ドローン仏」を用いた法要が行われた。ドローンに仏像を乗せて浮かび上がらせることで、「阿弥陀如来の来迎」を具現化しようというもの。浄土系仏教では念仏を称えて臨終を迎えた信者に阿弥陀如来が菩薩を伴い、極楽浄土へ迎え入れるべく雲の上から訪れるとされる。その情景を描いた絵画は「来迎図」と呼ばれている。この日は読経が鳴り響く中、阿弥陀如来と9体の菩薩が浮かび上がり編隊飛行を披露。最新テクノロジーを用いた「来迎図」の完成である。ドローン仏を作ったのは京都の仏師・三浦曜山氏。派手な近未来的な演出を担った三浦氏だが「仏像とは仏像の向こうにある仏様に祈りを捧げるもので、仏像そのものが存在を主張してはいけない」と語っていた。「空」や「無我」を説く仏教においては、仏像それ自体が主役になる偶像崇拝に陥ってはならない。それは仏師の重要な心得なのだろう。しかしドローン仏の個性は凄まじいものがある。

■仏像の衝撃と浸透

仏教は宗教というより哲学に近かったが、高度な哲学的真理より辛い現実から救われたい無学な民衆は具体的視覚的な礼拝対象を求めた。釈迦の姿を形どった仏像は1世紀には本格的に制作されていたようである。日本に伝来した仏教が日本古来の神道を圧する勢いで受け入れられたのも仏像・仏画の存在が大きい。それまで日本では山の神や海の神など自然に対する畏敬の念がそのまま信仰対象となっており、死後の世界観も曖昧だった。素朴な信仰に生きていた日本人には、きらびやかな仏像の存在は大きな衝撃を与えたのであった。さらに真言・天台の密教の時代になると、不動明王や毘沙門天などの多種多様な仏神が登場した。その様は仏教というよりインドの多神教・ヒンドゥー教に近い。実際、密教系仏教はヒンドゥーの神々を取り込み仏の弟子としている。そして密教も仏教であるからには偶像崇拝には陥るまいとする。宇宙の仕組みを表した曼荼羅の中心に鎮座する、密教の最高神・大日如来は宇宙の法則そのものを表すという高度な抽象的な存在である。しかし密教の神々が〇〇大師、〇〇明王などとして民衆に浸透してからは、大日如来の影は薄く、民衆はお大師さまやお不動さんに世俗の願いを託すようになった。

■浄土真宗の本尊問題

浄土真宗の宗祖・親鸞(1173〜1262)は阿弥陀如来に帰依するという意味の「南無阿弥陀仏」の名号を本尊とした。名号とは単なる阿弥陀如来の称号ではなく、弥陀の智慧と慈悲の働きそのものだとする。親鸞は仏像や仏画から本質を抽出したものが名号であるとして、これを信仰対象にすることで偶像崇拝の危険を回避した。しかし文字も読めない民衆には「名号本尊」のような単なる文字を崇めることは抽象的すぎて理解し難い。そこでやはり親鸞以降には具体的な絵像、木像の阿弥陀本尊が出現するようになった。親鸞の曾孫で本願寺第三世・覚如(1271〜1351)は絵像・木像の本尊を心中は複雑ながらも民衆の期待に応じて容認した。真宗中興の祖と言われる蓮如(1415〜1499)も「木像より絵像、絵像より名号」と言ってはいたが、現在は東西本願寺をはじめ、浄土真宗系の寺院で木像以外の本尊を見ることはほとんどない。阿弥陀の智慧や慈悲の働きが形となって現れたものであることには変わりなく、木像・絵像・名号のいずれも同等であるとしているようである。民衆からすればお寺に参拝して文字が並んでいるだけでは張り合いがない。やはり豪奢な阿弥陀如来が出迎えてこそ極楽往生への夢を見ることができる。一方で門徒(真宗信者)の仏壇の本尊は絵像か名号であることが多いが、これは単に貧しい民衆が入手しやすいというのが理由と思われる。付け加えれば本願寺は東西どちらも阿弥陀如来がおられる「阿弥陀堂」より親鸞がいる「御影堂」の方が中心を占めかつ大きい。

■無視できない民衆の思い

神の命令は問答無用の一神教とは違い、仏教は偶像崇拝を禁忌しながらも、具体的な仏像・仏画を求める民衆の思いを無視できなかった。その歴史には民衆のそれぞれの悩みに応じて対処しようとする、釈迦の対機説法の精神が見える。仏教は純粋に悟りを得たい人には抽象的な世界を、ひたすら救われたい民には具体的な仏神明王の姿を提供してきた。現代においてもマインドフルネスなど宗教色を除いた瞑想のニーズが高まる一方で、冠婚葬祭や祈願供養まで観音さま明王さまに手を合わせる人は絶えない。ドローンによって具現化された「阿弥陀来迎図」の向こうに本当の仏法を見ることができる人がどれほどいるか。信仰の「具現化」は悩ましい問題なのである。

■参考資料

■MBS毎日放送「京都知新 『阿弥陀来迎の具現化に挑戦する現代の仏師・三浦耀山』」2023年01月08日放送
■奈良康明/下田正弘「新アジア仏教史 02 インドⅡ 仏教の形成と展開」佼成出版社(2019)
■井上鋭夫 「本願寺」 講談社(2008)

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