東京都出身の「女黒幕」【シリーズお墓から郷土の偉人発見 VOL.16】

最近はwebでも「サロン」と呼ばれる会員サービスを目にするようになりました。著名人が有料会員向けに講演会やメールマガジンを提供するというものです。また、そうした会員の価値そのものを株のように投資対象とする仕組みのサービスも現れています。今回は昭和期にサロンを経営し「女黒幕」といわれた東京都出身の登原久美子さんをご紹介します。

 久美子さんは1895年、東京墨田区にある向島蓮華寺の住職の娘として生誕しました。1916年に三菱重工業重役を務めた登原剛蔵さんと結婚しましたが、剛蔵さんは長崎の原爆で被爆し死別してしまいました。

 終戦後、一人になって東京永田町の自宅に住んでいましたが、広大な邸宅であったので、自邸の一部を外務省に貸し、「終戦連絡事務局分室」(のちの千代田クラブ)の看板を掲げ、著名な官政界人に憩いの場(サロン)を提供しました。サロン経営を通じて大物政治家らとの親交を深めており、政界の「女黒幕」との異名をとっていました。のちに汚職事件に巻き込まれて邸宅を手放すことになりました。享年は89歳でした。

多磨霊園にある墓所の入口左手には「登原家」と刻む石塔があります。和型墓石に正面は夫と連名の戒名が刻まれており、 左側が登原久美子の戒名で「昭心院久誉妙操剛美大姉」と刻まれ、右側は夫の登原剛蔵の戒名で「興昭院念誉至誠剛心居士」と刻まれています。墓石の右面は登原久美子さんの名と没年月日と行年、左面は夫の登原剛蔵さんで、昭和廿年八月十四日戦死 昭和四十三年十月二十一日 勲四等旭日小綬章を授与さると刻まれています。

人名事典などには登原剛三と書かれているものがありますが、墓石より登原剛蔵が正しいです。 登原剛蔵さんは、1945年春に三菱重工業の本店の艦船部長を経て、長崎兵器製作所工場所長として赴任しており、長崎の原爆投下にて被爆死しています。 被爆死であれば八月九日が没月日ですが、墓石には八月十四日戦死と刻まれています。剛蔵の遺骨は、三菱重工業秘書課長の安田政勝によって終戦直後に夫人の手元に還えったといいます。

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◆取材協力
歴史が眠る多磨霊園
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/
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