バルカン砲の原点は農機具!? 一度は「時代遅れ」で消えたガトリング砲が汚名返上した波乱万丈の歴史

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戦闘機や軍艦などで多用されるバルカン砲。その源流は、19世紀に発明され、一度は「旧式兵器」として忘れ去られた存在、ガトリング砲でした。なぜ、現代の傑作兵器として奇跡の復活を遂げることができたのか、その波乱万丈な歴史を紐解きます。

誕生のヒントは「種まき機」!? ガトリング砲の原点

 戦闘機の固定武装として搭載されるM61A1の名称から、「バルカン砲」という名でも知られるガトリング砲。その歴史は古く19世紀中頃までさかのぼり、20世紀初頭に「旧式兵器」となって、一度は忘れ去られた存在になっていました。なぜ、ガトリング砲は現代に復活できたのでしょうか。

 ガトリング砲は複数の銃身を束ね、回転させて順番に発射することで高い連射速度を実現すると同時に、銃身の過熱を抑える仕組みになっています。発明したのは医師でもある発明家、リチャード・ジョーダン・ガトリングです。

 1818年、ノースカロライナ州の農家に生まれたガトリングは、農業機械の発明家でもあった父と兄の影響を受け、自身も発明の道に入ります。最初の発明は21歳の時に考案した船舶用のスクリュープロペラでしたが、特許申請がスウェーデン出身の発明家ジョン・エリクソンに数日遅れ、特許取得はなりませんでした。

 農家に生まれ育ったガトリングは、特に農業の機械化・省力化に力を注ぎます。当時の農業で手間のかかる作業に綿花の種まきがあり、一定の間隔で同じ量の種を手作業でまくのは大変で、これの省力化を図ろうと考えました。パイプを複数並べ、車輪の回転でスクリューを回して一定間隔で一定量の種が送り込まれる種まき機は評判になり、綿花だけでなく稲用や小麦用もつくられ、大ヒットを記録します。

 1861年、アメリカで南北戦争が勃発しました。1850年に医学博士号も取得していたガトリングは、戦場で多くの兵士が戦傷病死するのに心を痛め、もっと少ない人数で戦闘し、戦闘時間も短くすることはできないかと考えます。

 そこで思いついたのが、自身の発明品である種まき機です。パイプを並べる代わりに銃身を束ね、スクリューのように回転させながら1発ずつ弾丸を供給し連射できるようにすれば、単発式のライフル銃を扱う兵士の数を減らすことが可能だとガトリングは考えます。彼は直ちに設計を始め、1862年11月4日に「機関砲(マシンガン)」の特許を取得しました。

ライバルの登場と「旧式兵器」への転落

 ガトリング砲は、クランクハンドルを手で回すことで束ねられた銃身が回転し、次々と弾を放つ構造で、これにより毎分200発もの連射が可能になっていました。

 これは単発式の銃を使うライフル兵が1分間に10発撃てると仮定すると、20人分に相当します。1865年には改良版の特許も取得し、信頼性を向上させました。

 南北戦争では北軍の指揮官によって個人的に購入されたものが少数使用され、1864年6月~1865年4月のバージニア州ピーターズバーグ包囲戦で初めて実戦投入されました。この実績から、戦争終結後の1866年、アメリカ陸軍はガトリング砲を制式採用しています。

 ちなみに、初期型のガトリング砲は日本にも少量が輸入されており、戊辰戦争で河井継之助率いる長岡藩が使用したことでも知られています。ロシアでは艦載の銃砲として広く用いられ、日露戦争の日本海海戦でも使用されました。

 ガトリングは1870年にガトリング砲の特許をコルト社に売却しますが、さらに改良を続け、1893年には電気モーター駆動で毎分1200発を実現するまでになりました。ところが、1884年にハイラム・マキシムが「マキシム機関銃」を発明したことで風向きが変わります。

 マキシムの機関銃は、弾丸発射の反動を利用して空薬莢を排出し次弾を装填する仕組みで、兵士60人分に相当する毎分600発の連射を実現しています。人力でクランクを回して連射するガトリング砲と違い、はるかに効率的であると同時に銃身を水で冷やす方式を採用したため、銃身の過熱も効果的に抑えることができました。

 効率が良く画期的な連射機構を持つマキシム機関銃の登場により、大きくかさばる上、連射に人力や電力という外力を必要とするガトリング砲は急速に支持を失っていきます。1911年、アメリカ陸軍はガトリング砲を「旧式兵器」に位置付け、時代遅れの存在として退役させました。

なぜ復活? ジェット戦闘機の登場と「バルカン計画」

 時代の波に消えたガトリング砲が再び注目を浴びたのは、第二次世界大戦後まもなくとなる1946年のことです。当時、アメリカ陸軍航空軍(のちの米空軍の母体)は、ジェット戦闘機が主体になる将来の空中戦について研究していました。ジェット戦闘機はプロペラ機に比べて速く飛ぶため、空中戦では相対速度が1000km/hを超える可能性が出てきます。

 飛行速度が向上すれば単位時間あたりの移動距離は延び、主なプロペラ戦闘機の固定武装だった12.7mm機関銃の毎分600発という連射速度では、発射された弾と弾の間隔に機体がすっぽり入り込み、命中弾を得られない可能性がありました。当たったとしても数発程度となり、機体を破壊し撃墜するまでの破壊力を得ることは期待できません。

 その反面、破壊力の大きな20mm機関砲は12.7mm機銃より連射速度が遅く、しかも動作不良をたびたび起こすなど信頼性が不足していました。

 そこでアメリカ陸軍航空軍では「バルカン計画」として、毎分7200発という連射速度と高い信頼性を目標にした新型機関砲の開発をスタート。各メーカーに呼びかけ、広くコンペを開催しました。

 コンペに応募したメーカーのうち、ゼネラル・エレクトリック(GE)の兵器部門は多銃身回転式のガトリング砲を思い出します。1本の銃身で速度の速い連射を続けると、銃身の過熱で命中率が落ちてしまいますが、複数の銃身を回転させ順番に撃つ方式であれば、銃身の過熱を抑えられる優位性が認められました。

 かつてのガトリング砲には、駆動方式が人力もしくはバッテリーによる電力で、長時間の運用が難しくなるデメリットがありました。しかしジェット機であればエンジンで発電できるので、電源問題は解決できます。しかも発射時の反動やガス圧ではなく、機械的な動きで空薬莢の排出と次弾の装填をするので、動作不良も少なくなります。

 これを受け、GEはまず対戦車ライフル用として作られた15mm弾を使用した試作機を製作し、1949年に毎分2500発、翌1950年には毎分4000発の発射速度を実現しました。

「M61バルカン」の誕生から現代のCIWSまで

 しかし、朝鮮戦争の経験から、15mm弾では威力不足の心配が出てきたため、使用する弾薬を20mmに変更する流れとなりました。

 この改良型は1952年から試験に供され、初期型の「T171」と呼ばれるベルト給弾のモデルがF-104「スターファイター」戦闘機の試作機に搭載されて試験が続けられます。F-104の開発試験中、連射速度が速すぎてベルト給弾では分離したベルトリンクの排出がうまくいかないことが判明すると、ベルト給弾に代わりレールに沿って「流し込む」給弾方式に改め、これが最終的に1959年「M61A1バルカン」として制式採用されました。

 M61A1、そして改良型のM61A2は、アメリカのジェット戦闘機における固定武装として広く搭載されるようになり、この構造を基本に使用する弾薬を変更したモデルがいくつも作られました。

 航空機搭載のガトリング砲として最も口径が小さいのは、ヘリコプターのドアガンなどに使われる7.62mm弾使用のM134ミニガン、最も大きいのはA-10「サンダーボルトII」の機首に搭載されている30mm弾使用のGAU-8「アベンジャー」です。

 艦船にも、最後の守りとなるCIWS(近接防衛兵器システム)として広く採用されており、有名なところではアメリカ製の20mm弾を使用する「ファランクス」や30mm弾を使用する「ゴールキーパー」、ロシア製の30mm弾を使用するAK-630などが知られています。

 艦の近くまで接近してきた航空機やミサイルに対し、素早く弾幕を張って防御するCIWSの役割を考えると、ガトリング砲の採用は非常に理にかなったものといえるでしょう。

 一度は時代遅れとなって消えたものの、後の世に新たな価値を見出されて復活したガトリング砲。1903年に亡くなったガトリングも、自身の発明品がこのような運命を辿っているとは、想像もしなかったのではないでしょうか。