3日間で18会場へ。浦和レッズの選手たちが街に出た理由

所得「1億円の壁」問題とは?

 6月6日(土)、明治安田J1百年構想リーグが閉幕したが、その直後の3日間、浦和レッズの選手たちがホームタウン各地へ足を運んだ。さいたま市内の小学校、保育園、警察署、赤十字……計20会場を巡った集中ホームタウン活動は、クラブが積み重ねてきた“地域との関係”の現在地を映し出す。なぜ今、レッズは街へ出るのか。その背景と歩みに追った。

 9日(火)、「さいたま市立中尾小学校」を訪問したGK吉田舜(藤枝MYFCへの完全移籍を発表)、MF和田武士は、まず1年生4クラスの各教室を回り、この春入学した児童たちへの入学祝いを贈呈。最後のクラスでは予定外のパフォーマンスも飛び出し、和田がリフティングを、吉田がキャッチングを披露するなどして喝采を浴びた。その後、全学年の教室の前を歩き児童たちに挨拶。当初は児童たちが教室の中から手を振って、それに二人が廊下から応える、という形が想定されていたが、ほとんどの児童が廊下に出て選手を待ち、その人垣の中を通りながらハイタッチを交わすという光景が続いた。

 中尾小学校に続いて向かった「南浦和たいよう保育園」では、近くにある姉妹園の「おおぞら保育園」の園児たちと合わせて20数人の年長児と交流した。2人がリフティングとキャッチングを披露したあと、選手1人に対して3人の園児がボール奪取にチャレンジするというゲームを行った。さらに園児が2組に分かれて吉田と和田がそれぞれ加わり、ボールを使ったリレー競争を行うなど、大歓声の中で訪問を終えた。

 自身も5歳の男の子がいる吉田は「『おはようございます』と言ったら大きな声で返してくれるところは、小学1年生も保育園の年長さんも変わらず、可愛いですね。うちの子も園ではあんな感じなのかな、と思いました」。和田は「保育園の子たちとのボールの奪い合いでは、だいぶアグレッシブに取りに来てくれました。良い選手が眠っているんじゃないでしょうか。小学校では、かなりレッズを好きそうな子がいたので、試合を観に来てほしいなと思いました」と、それぞれこの日の感想を語っていた。

 また10日には、GK佐藤瑠星(モンテディオ山形へ育成型期限付き移籍を発表)とFW肥田野蓮治が「1日浦和警察署長」を務めた。制服姿でJR浦和駅東口に立ち、「特殊詐欺防止キャンペーン」の啓発活動として、警察庁推奨「特殊詐欺対策アプリ」のインストール方法が掲載されたチラシなどの啓発グッズを2人が配り始めると、用意された500セットはすぐになくなった。

 ホームタウン活動への参加が初めての肥田野は「浦和の街の方々と一体になってこういう活動ができるのは、サッカー以外でもパワーをもらえるような良い経験になりました」と語り、ホームタウン活動への参加経験がある佐藤は「地域の方々と交流できるのは自分自身の活力になりますし、こうしたキャンペーンを通して、特殊詐欺防止への関心を高めてもらうとともに、サッカーにも興味を持ってもらえたらと思うのですごく良い活動ができたと思う」と語っていた。

 他に、日本赤十字社埼玉県支部を訪れたDF荻原拓也とDF田中義峯が、AED(自動体外式除細動器)を用いた救急法体験をはじめ、災害発生時に活用される臨時救護所(エアーテント)の設営体験を行うなど、在籍選手の半数以上が、さいたま市内の小学校や保育園、区役所や警察署、消防署など、3日間で20会場を訪れた。これほど集中した活動は初めてだった。

 浦和レッズには、地元の自治体や公共団体、行政機関、あるいは協力関係のある団体からの要請が数多くあり、クラブも積極的に選手を派遣する意向だが、今年は特別大会の終了まで連戦が続いたこともあり、すべての要請には応えきれていなかった。そこでチームがオフに入ったのを機に、この3日間に集中して選手がホームタウン活動に参加したというわけだ。一方で、この期間にはホームタウン活動以外にも、パートナー企業への挨拶回りなど、選手が分かれて各種対外活動を行った。

2006年、商店会回りが変えたクラブの意識

 浦和レッズに「ホームタウン部」ができたのは2000年。J2に降格したことを機に設けられた。かつては地域のイベントなどに選手の派遣要請があった際、現在ほど多くの選手が地域活動に参加する機会はなかった。それはセキュリティー上の問題などが理由だと言われていたが、クラブが積極的に地域へ出ていくという発想自体が、まだ十分に浸透していなかった時代でもあった。

 しかし、レッズ誕生10年を過ぎたころから徐々に変化が表れた。初めてタイトル(Jリーグヤマザキナビスコカップ優勝)を獲得した2003年、優勝賞金の一部でさいたま市内の小学校にボールを寄贈したのを皮切りに、タイトルを獲るたびに、中学校、保育園・幼稚園などへと広げながら、サポートへのお礼を形として表すようになった。そこには、「地域に支えられているクラブだからこそ、成果を地域に還元する責任がある」という考え方があった。こうした意識の変化は、地域との接点づくりにも表れていく。イベントなどに派遣される選手の顔ぶれも変わり、主力選手が参加する機会も増えていった。

 そして2006年に大きな転換点が生まれた。当時のレッズは人気絶頂と言っていい時期で、ホームゲームのチケットはほぼ完売、埼スタには毎試合5万人台後半の入場者があった。ホームゲームでのスタジアムは熱狂に包まれ、クラブは順調に成長しているように見えた。

 しかし、その一方でクラブにはある危機感が芽生えていた。ホームタウンである浦和の街は同じ熱狂に包まれているのだろうか――。旧浦和市の中心部にあった浦和駒場スタジアムから、市の最東端である埼玉スタジアムに本拠地を移した結果、入場者数は2倍、3倍に増えたが、その反面、試合後にスタジアムの熱が街に広がって行く機会は激減した。

 スタジアムだけでなく、浦和の街全体からも期待されるクラブでありたい。そういう思いから2006年の秋に、クラブスタッフ全員が手分けして旧浦和市内の全商店会を回った。顔を出してポスターを渡すだけでなく、商店会長らとじっくり話をし、クラブへの要望や不満などを聞いて、そのレポートを集約した。

 その結果、スタジアムでの熱狂とは対照的に、街のレッズ色が以前ほど感じられなくなっていることが浮かび上がった。これではいけない――。このことがその後のホームタウン活動の方向性を考える上で大きな契機になった。チームの勝利を大きく後押しする、満員の熱狂的なスタジアム。それに満足せず、ホームタウン全体を巻き込んでいきたい。それには、自分たちから浦和の街に出て行かなければならない。こうした考えは、その後のホームタウン活動の根底にある発想として受け継がれてきた。これがクラブの意識として現在も定着している。

「ゼロからイチへ」。ホームタウン本部の現在地

 レッズの歴史を見ると、初期の最優先課題は「強くなる」「タイトルを獲る」ことであり、地域との関係はさほど重視されていなかった。浦和が持っていたサッカーとの親和性に甘えていた部分もあっただろう。

 しかし時代は変わっている。レッズのホームタウンには年々新しい市民が生まれている。「サッカーのまち」という浦和のキャッチフレーズは、かつて高校サッカーで浦和の高校が何度も全国を制覇したという、浦和の人たちの誇りから生まれた自然な感覚だった。しかし、その歴史を知る人は徐々に少なくなってきており、「サッカーのまち浦和」とは浦和レッズの存在を指す言葉だと思っている若者も多い。

 そしてクラブ自体が変わっている。ホームタウンに住む人で、一度もレッズの試合を見たことがない人、レッズに興味がない人が少なくないことに危機感を覚え、「待ち」「受身」ではなく、アクティブな活動を日々行っている。

 クラブには現在、7人体制の「ホームタウン本部」がある。スタッフがホームタウンの人々と向き合い、その中で地域の人たちがやりたいこと、必要なことを聞き出して、一緒に課題を解決していくという活動が同本部の大枠だ。あるスタッフは言う。「自分たちの大きな役割の一つは、浦和レッズを知ってもらうこと。この地域の方々に、まずレッズという存在を知ってもらい、少しでも意識してもらう。いわば『ゼロからイチにする』ような、最初の段階を担うのがホームタウン本部だと思っています」

 例えば、ホームタウン内の小学校(特別支援学校を含む)58校を対象とした新1年生と卒業生への記念品贈呈は、毎年の恒例事業になっているが、記念品は宅配便ではなくスタッフが手分けして配る。その際には、お祝いの言葉を伝えながら、各校の現状を聞いて自分たちにできることはないか模索する。そういう直のコミュニケーションを大事にしている。

 薬師寺智之ホームタウン本部長は語る。「今回のように、3日間集中して選手がホームタウンへ出向く取り組みは、クラブとして初めての挑戦でした。いろいろな議論はありましたが、レッズは本来どうあるべきかという原点に立ち返り、レッズを知ってもらうきっかけづくりという意味でも、さらに選手に自分たちがいろいろな人に支えられているんだということを直に感じてもらう機会をつくるという意味でも、今回の取り組みは大事なものでした。浦和レッズはこの街のサッカークラブです。クラブの先輩たちがさまざまなものを築いてきた、そのバトンをもらって我々ホームタウン本部は活動しています。私たち自身が、もっともっと街の中に溶け込み、地域の方々と一緒に歩んでいきたいと思っています。今回の3日間は自分たちの力が試される良い機会でもあったと思っています」 

 レッズのホームタウン活動は、他クラブの先を進んでいるとは言えない。しかし、着実に前進している。今回の集中活動は、その実証であり、新たなスタート地点になったはずだ。 

取材・文=清尾 淳