第二次トランプ政権の発足以降、自動車の貿易を巡る日米間の摩擦が再び注目されています。約50年以上にわたって続く、こうした追加関税や非関税障壁を巡る攻防は、どのように打開されてきたのでしょうか。
「最悪のシナリオ」は回避も、いまだ安心できず?
米国で第二次トランプ政権がスタートしてから、日本の自動車業界は大きく揺さぶられ続けています。二転三転した追加関税の発動や、いわゆる非関税障壁の撤廃へ向けた猛プッシュです。
2026年4月にJETRO(日本貿易振興機構)が発表した資料によると、日本に対する追加関税率は自動車・同部品について15%(MFN税率を含む)となっており、中国やカナダ、ブラジルの25%と比べると低い税率で落ち着いています。日本政府の粘り強い交渉や譲歩案の提示により、最悪のシナリオはひとまず回避できたかのように見えます。
ただ、トランプ大統領は常々、「日本の安全基準や環境性能基準がアメリカ車を拒否している」とする旨の不満を漏らしています。また、USTR(米通商代表部)も2026年版の貿易障壁報告書で「日本には米国の自動車の市場参入を阻む、さまざまな非関税障壁があり、米国製自動車や同部品の販売は依然として低迷している」と指摘しており、「日本市場への相互参入を提供するとの約束について、日本の取り組みを注視していく」と強調しています。
今後もし、日本市場でアメリカ車の販売が思うように伸びなければ、再び米国からの要求や追加関税の設定が発生する可能性もあるでしょう。いまだ危うい状況にあることは否めません。
しかし、自動車産業を巡るこうした日米間での貿易摩擦や関税障壁の問題は、何も今に始まったことではありません。両国は、公害や石油危機に端を発する騒動が起こった1970年代以降、これまでも幾度となく大きな山を越えてきました。
「今では当たり前の装備」も外圧で生まれた!
米国では1940年代より、大気汚染による健康被害が公害として問題視されはじめました。1955年には大気汚染法が施行され、その後、最大の原因は自動車の排出ガスであると研究で特定されました。
そして1970年に大気浄化法改正法(通称「マスキー法」)が制定されましたが、その内容は、当時の技術レベルからすると無理難題というほど厳しいもの。米国ビッグ3(GM、フォード、クライスラー)や欧州メーカーは猛反発し、マスキー法の実施延期を米国議会に迫ったほどでした。
しかし、この大きな苦難を逆に味方へ付けたのが日本の自動車メーカーです。まずホンダの初代「シビック」が世界で初めてマスキー法をクリアすると、続いてマツダもロータリーエンジンでクリア。1973年には石油危機も重なり、小型で燃費のよい日本車が、米国内で急速に人気を集めていきました。
これにより、日本から米国へ輸出される自動車も急増。1975年には年間100万台にも満たなかった対米輸出台数は、1980年には250万台へ迫り、シェアは21.3%まで拡大しました。一方、ビッグ3を中心に米国メーカーの業績は悪化。リストラに追い込まれた従業員らが、日本車をハンマーで叩き潰す「ジャパン・バッシング」も発生しました。
そこで日本政府と自動車メーカーは1981年、米国への自動車の輸出台数を制限する「自主規制」を導入。また米国政府からの強い圧力もあり、日本から完成車を輸出するだけでなく、米国現地でのクルマの生産も加速化させていきました。
また、1970年代後半からは、「“非関税障壁”がアメリカ車の対日輸出拡大を阻んでいる」として、新たな摩擦も強まっていきます。やり玉に挙がったのは、日本国内で装着が義務づけられていた保安部品などです。
なかでも後方確認用のミラーは、すでに欧米ではドアミラーが主流となっていましたが、日本ではフェンダーミラーしか認められておらず、アメリカ車を含む外国車を日本で販売する際は、わざわざフェンダーミラーに付け替える必要がありました。米政府からの要求を最初は拒否していた日本政府も、ついに輸入車に限りドアミラーの装備を容認。1983年には、日本車への装着も認可されました。
さらに、当時は100km/hを超える速度を出すと「キンコン、キンコン」と、警告音が鳴る速度警告装置を取り付けることも義務でしたが、これも米国から撤廃が求められ、1986年に装着義務が廃止されました。このほかも1980年代~1990年代にかけ、アメリカ車の型式指定の認証簡素化や、輸入車特別取扱制度の創設・拡充、出張検査時の現車持ち込みの省略など、さまざまな非関税障壁の緩和や撤廃措置が講じられていきました。
日本製高級車「関税100%」の危機も
一方、日本からのクルマの対米輸出台数は、自主規制の継続と現地生産の拡大により、1986年頃をピークに減少していきました。しかし、1990年代にはまた新たなバッシングが始まります。それは、「米国で生産される日本車に、米国製の部品があまり使われていない」という指摘でした。
1992年1月には、当時のジョージ・H・W・ブッシュ大統領が、ビッグ3の代表とともに来日。宮沢喜一首相との会談後に「東京宣言」(グローバル・パートナーシップ行動計画)を出しました。
この宣言では日本メーカーによる自動車の部品購入について、1994年度に、日本への輸入との合計で約190億ドルを目指す、という努力目標が掲げられました。これは1990年度実績である約91億ドルの2倍以上でしたが、実際に1994年には、米国製部品購入額は199億ドルにまで膨らみました。
ただ米国政府の目論見に反して、自動車と自動車部品の対日赤字額は減るどころか、1986年の60億ドルから、1994年には128億ドルにまで増加。また、当時の日本でのアメリカ車と米国製部品のシェアはともに2%台でとどまっており、米政府は「日本市場が依然として排他的である」と批判しました。
さらに同時期、USTR(米通商代表部)は「日本でのクルマの修理やメンテナンスの多くは車検制度に合わせて実施されており、工場はメーカー系列の認証工場が主流で、外国製部品を一切使用していない」という旨の声明で、規制緩和を訴えました。
また「日本のディーラーには外国車の併売店舗が少ない」として、自動車ディーラー網の開放も要求。もし応じなければ、レクサスなど日本メーカーの高級車に、100%の関税を課すと迫ってきました。ただ当時の資料を見ると、各国のアメリカ車のシェアはドイツが1.4%、イギリスが0.4%、フランスは0.1%と日本よりも圧倒的に低く、日本市場が排他的とはいえませんでした。
それでも1995年、日本の自動車メーカーが輸入車の拡大・拡販、部品輸入の拡大などを盛り込んだグローバルビジョンを発表し、一応の合意を得ました。米政府は「制裁措置の回避に合意しただけで、すべてに納得したわけではない」としたものの、合意内容は2000年まで有効とされ、2001年からは新設された「ACG(日米自動車協議グループ)」での話し合いが始まりました。
“壁”は関税にあらず?
このグループには欧州委員会やカナダ、オーストラリアもオブザーバーとして参加し、協議は平和的に進行しました。
ところが2013年、米国はTPP(環太平洋パートナーシップ)交渉と並行して、再び自動車関税や非関税障壁に対する強い要望を日本側に提示しました。2016年にはルームミラーなど7種目について、認証試験を簡素化するといった非関税障壁の除外が進められています。
そして2017年に第一次トランプ政権が誕生すると、問題は一気に再燃。トヨタが米国向け「カローラ」の生産工場をメキシコに建設する計画を発表すると、トランプ大統領は「とんでもないことだ! 米国に工場を建設しろ、さもなければ高い関税を支払え」とSNSにコメントしています。
このように、米国政府は莫大な貿易赤字の改善のため、なりふり構わぬ姿勢を取ってきました。これには日本政府や日本の自動車業界も大きく振り回され、現在に至っていますが、日本市場でのアメリカ車の販売台数は、1996年の約7万2900台をピークに減少を続けています。
また、フォードとクライスラーはすでに日本から撤退しており、2025年度のアメリカ車の販売実績はジープ、テスラ、GMのキャデラックなどを合わせて、1万1000台程度(テスラは国別の販売台数非公表のため推定)となっています。
その要因については多くの識者が指摘していますが、決して日本市場が排他的なためではないと考えられます。日本の道路事情に合ったサイズ、多くの日本人が望む環境性能や顧客サービス、購入後のメンテナンス体制などが合致していなければ、アメリカ車でなくても、日本国内で売れないのは当然のことでしょう。
対日貿易赤字が改善しなければ、第二次トランプ政権がまた締め付けを強くしてくるとも予想されますが、それによって非関税障壁を崩したとしても、日本のユーザーの心理的な壁を崩すまでに至るかは不明瞭です。軽規格EVを投入する中国のBYDのように、強行突破するより、もっと柔軟な戦略をとった方が効果的なのかもしれません。