道に埋め込まれた「ナゾの“不”印」はUFOの着陸地点? 実は英国人技師の置き土産 足もとに100年以上ある「隠れ近代化遺産」

成長局面を迎える日本の電子部品

東京都内の路上でたまに見かける「不」の字に似た石の印。UFOの着陸マークという都市伝説もあるようですが、実は日本の近代化を支えた重要な「しるし」でした。

測量に使う卓袱台が「ベンチマーク」の語源に

 東京都心をウォーキングすると、突然足元に「不」に似たナゾの石標を見つけることがあります。ただし、よほど注意して歩かなければ、お目にかかれません。このため「踏むとその日は幸運」と、一種の「パワー・ストーン」として一部ではありがたがられているようです。

 さらに「不」の形が、UFOの底面から地面に怪光線を発し、人間を円盤内に吸い寄せる場面にも見えます。そこで、「UFO着陸点用の秘密マークでは」と、想像力豊かな「都市伝説」さえあるようです。

 石標は約15cm四方の四角柱で、花崗岩で造られたものが大半です。「不」印が刻まれた上面を残して、全体はすっぽりと地面に埋まっています。

 実はこれ、日本の近代化に貢献した、イギリス仕込みの「几号(きごう)水準点」と呼ばれるものです。「几」は「几帳面(きちょうめん)」の単語などに使われる漢字で、「つくえ、小さな台」を意味し、「机」とほぼ同義語です。

 文明開化を進める明治新政府は、西洋の近代技術を貪欲(どんよく)に取り入れていました。中でも、日本国土の正確な把握は、文明国家にとって「一丁目一番地」で、測量のための水準点の設置に乗り出します。

 まず、1873(明治6)年6月に、東京・霊岸島(中央区)の隅田川河口に近い東京湾岸に、全国の標高の基準となる「0m」を定めた基準点「量水標」を設置します。ここで数年ほど潮位を測り、その平均値を「標高0m」と定め、全国の測量の叩き台としました。

 直後に内務省(国交省、厚労省、警察庁などの前身)が設立され、配下の地理局が1876(明治9)年に全国測量をスタートさせます。最初に手掛けたのは、近場である関東地方全域の標高調査「関八州大三角測量」です。

 ただし、霊岸島だけを基準に測量を続け、弾き出したデータを積算し続けた場合、内陸部に行けば行くほど誤差が大きくなります。

 これを避けるため、北の宮城県仙台市に近い現・塩竈市の松島湾岸にも「標高0m」の地点を置き、南北から測量を進め、適当な中間地点で落ち合い、積算データを比較するという妙案を実行します。

「不」の字の由来

 測量を行うには、なるべく遠方まで見渡せ、移動や交通の便、宿泊の用にも事欠かない、街道を沿って行うのが好都合です。そこで、東京~塩釜間(約387km)を結ぶ奥州街道(現・国道4号)を選び、双方からそれぞれ約160km進んだ中間地点の那須高原を「基点」と定めました。

「霊岸島」チーム、「塩釜」チームがそれぞれ60か所超ずつ、合計130ほどの水準点を街道沿いに設けたと見られます。平均約2.5kmに1か所の割合ですが、当然起伏や曲がり角も多数あるため、無数の補助水準点も置かれたはずです。ちなみに、両チームがそれぞれ導き出した那須高原の標高の誤差は、約79cmでした。

 GPSもレーザー測量機もない完全アナログの時代なので、1mにも満たない誤差は、逆にかなりの精度といえるでしょう。この誤差は、それぞれ約130か所の水準点のデータに按分して、誤差の縮小に努めました。

 この一大事業は「一等綱紀高低測量」と呼ばれ、1876(明治9)年8月から翌年8月まで約1年を費やしています。

 この時、明治政府は近代的な測量技術の取得のため、「お雇い外国人」としてイギリス人技術者を招き入れ、指導を受けています。そして、イギリス人技師達が持ち込んだのが、母国で使われていた「不」印だったのです。

「不」印は、半永久的に残りそうな場所である神社の鳥居や灯籠、寺院の石製の基礎部分、橋梁の門柱、里道標などを好んで選び、地面から垂直面(壁部分)に刻みました。

 測量方法は、10cm四方程度の小さな卓袱台(ちゃぶだい)のような金属製標尺台の一片を、「不」印の「一」部分に差し込み、もう一辺の側にある脚を、水準点に斜めに突っ張るように差し出し、台を水平にします。こうして台の上に小さな標尺(物差し)を載せ、測量を行います。

 この標尺台は、小さな「腰掛け」に似ていることから、「ベンチ」と呼ばれます。そして、これを固定する「不」マークが「ベンチマーク」で、日本語で「几号」と訳されました。製品の性能を調べたり、企業経営を判断したりする時の「基準」をベンチマークと呼びますが、実はこれが語源です。

東京独自に進化した道路埋め込み式「不」印

 その後、国家的な測量事業は日本陸軍測量局に一本化され、水準点の印は「不」から「・」に変更されます。

 一方、急速な都市化に伴い、起伏の多い都心で上下水道を整備する必要から、明治30年代初め(1890年代末頃)から、東京市は独自に標高測量を行います。鉄道馬車や路面電車(市電)の敷設ルートを選定する時に、馬車・電車が登坂できるかどうかの参考データとしても重宝されたと思われます。

 その時、目印として、引き続き「不」印を起用したようです。しかも使用方法を独自に進化させ、「不」印を垂直面ではなく、道路に埋めた「水平几号高低標」としています。

 水平几号高低標の場合、「不」印の真ん中に測量用ポールを立てて使ったようですが、すでに「ベンチを掛ける」という「不」印本来の目的は失われています。しかも、どうやら東京独自のもので、他の場所では見られないようです。

 水平几号高低標は都内の次の場所などに現存します。設置から100年以上が経過しており、今や貴重な“遺跡”です。

・台東区橋場の白髭橋西詰近く
・新宿区大京町のJR千駄ケ谷駅・新宿御苑近く
・新宿区余丁町
・文京区白山の東京メトロ南北線東大前駅近く
・文京区小日向台町小学校横
・港区麻布台のロシア大使館近く
・千代田区九段北

 数年前までは、20か所弱が存在していたようですが、道路の拡幅工事や区画整理の時に撤去される例が多く、現在では10か所強が残る程度で、“絶滅”も懸念されます。