「母の思いをつないでいく」。一晩で約10万人が命を落としたとされる東京大空襲から10日で81年になる。戦渦で孤児となった海老名香葉子さんは、昨年92歳で亡くなるまで鎮魂の集いを続け、平和を希求した。長男で落語家の林家正蔵さん(63)は、母が主催した集いを家族と共に法要の形で受け継いでいく。
正蔵さんは幼い頃から、毎年3月、母の家族が亡くなったとみられる東京都墨田区の小学校で手を合わせてきた。
遺体は見つからず墓はない。母は、写真も残っていない、自身の弟の唯一の形見であるメンコを手に「戦争があって、ここで私の大事な家族が亡くなったんだよ」と話をしてくれた。「歯を食いしばって生きてきた気丈な人」だったが、年に一度だけ、涙ぐんで肩を震わせていたことを覚えている。
大空襲で海老名さんは両親や兄弟ら6人を失った。自身は静岡県に疎開しており、11歳で孤児に。和竿職人だった父の得意先の落語家が親代わりになった縁で、初代林家三平さんと結婚した。
1980年に三平さんが早世。一門を支えるためエッセイストとなった海老名さんは、戦争に関する著書を多く記した。2005年、台東区の上野公園に母子像を、近くの寛永寺現龍院墓地前に慰霊碑を建立し、同年から毎年3月9日に大空襲を語り継ぐ「時忘れじの集い」を2カ所で開催。昨年は車椅子で参列し、同12月に死去した。
正蔵さんは「母は日常、戦争のつらい話は一切しなかった」と振り返る。著書を通じ、孤児となって各地を転々とした詳しい経験を知ったが、「傷をえぐるのではないか」と直接尋ねはしなかった。炎の中を家族と逃げ惑い、唯一生き残った母の兄である伯父からも、一度も聞いたことがない。
「口に出すのもはばかられるような、重たいものを背負っていたんだと思う」と声を震わせる正蔵さん。「戦争のむごさ、悲惨さを語るより、『語らないこと』で伝えていたのではないか」と受け止める。
母を突き動かしたのは、「戦争で私のようなつらい思いをさせてはならない」との一念だったと考えている。家族と共に思いを受け継ぎ、9日、寛永寺の慰霊碑前で法要を営む。「いまだに戦争があって、誰かが泣いている。平和を願う母の思いを、途切れさせることなく伝えていく」。来年以降も形は変わるかもしれないが、家族と一門で集いを続けるつもりだ。
〔写真説明〕亡き母、海老名香葉子さんについて語る林家正蔵さん=2月18日、東京都台東区
〔写真説明〕昨年亡くなった海老名香葉子さん。疎開先の一つだった石川県穴水町で約7年前に撮影された(ねぎし事務所提供)