細川首相「数値目標は自己否定」=包括経済協議でクリントン米大統領に反発―外交文書公開

 1993年に始まった日米包括経済協議を巡り、94年2月の日米首脳会談で細川護熙首相が焦点だった数値目標を「自分の改革の自己否定につながることは受け入れられない」と拒み、クリントン米大統領は協議の継続に難色を示した。24日公表された外交文書で会談のやりとりの詳細が明らかになった。(肩書は当時)
 包括経済協議は、米国が日本の市場開放を迫った日米構造協議を引き継いだ枠組み。自動車、政府調達、保険が優先3分野とされ、米側は客観的基準として数値目標の導入を求めた。94年2月11日にワシントンで開かれた日米首脳会談で、協議合意に至らなかった。
 この会談録によると、細川氏は数値目標について「自由な経済活動を阻害し活力ある経済運営を促進するという自分の政権の基本姿勢に逆行する」と反発。「何が妥当な目標値か決め難い」と指摘し、これまでの協議で米側の主張は一貫性を欠いていたと批判した。
 ただ、政府調達と保険の協議については「もう少しの努力で合意に達するところまで来ている。可能な分野から交渉を進めていくことが可能だ」と継続を呼び掛けた。
 これに対し、クリントン氏は「政府調達や保険についても立場は遠く離れている」と反論。「協議するべきことはあまりない」「行き詰まりに直面しているので冷却期間を置くことが最善だ」と述べ、協議継続に難色を示した。
 一方、クリントン氏は日米の意見の相違に関し「関係が強固で信頼できるものであることの証拠だ。友好、信頼関係を損なうことにはならない」と配慮を示し、細川氏も「日米関係全体が壊されることになってはならない」と賛同した。
 細川氏は、過去の日米協議は最終的に日本が「外圧」に譲歩してきたと説明。「新しい時代の日米関係の姿」として「合意できないことは合意できないということを率直に認めるという成熟した大人関係になっていく必要がある」と唱えた。
 この会談の別の記録には「大統領は『制裁』という言葉に一言も言及はなく、直接匂わすこともなかった」と記され、日本側が米側の反発に身構えていた様子がうかがえた。
 日米包括経済協議はその後、各分野ごとに順次決着し、95年6月の自動車合意により優先交渉分野が全て決着した。