外務省は24日、1994年の外交文書ファイル17冊を公開した。同年の北朝鮮核危機を巡り、経済制裁だけでなく核施設への攻撃も視野に入れるクリントン米政権は、細川護熙首相に支援を強く要求。国内法の制約を受ける日本の対応に議会重鎮も不満を漏らしていた。北朝鮮の後ろ盾だった中国は日米に距離を置き、細川氏は難しい対応を強いられていた。(肩書は当時)
核開発を加速させていた北朝鮮は、93年3月に核拡散防止条約(NPT)からの脱退を表明した。クリントン大統領は核開発の凍結に向けた外交交渉を進めつつ、海上封鎖や限定的な武力行使を検討。日本に対し、自衛隊が機雷掃海で協力することや、民間空港・港湾の使用を認めるよう迫っていた。
こうした中、94年2月11日にワシントンで日米首脳会談が行われた。昼食会に同席したクリストファー国務長官は「不測の事態を考えておく必要がある」と協力を要請。日本は集団的自衛権の行使はできないとの立場だったため、細川氏は「国内法で可能な範囲で対応する」と答えざるを得なかった。
同日、細川氏と面会した議会重鎮はいら立ちを隠さなかった。共和党のドール上院院内総務は「法的に何ができないのか」と詰問。民主党のミッチェル上院院内総務も「隣国の日本が憂慮していないのに、なぜ米国が心配しなければならないのか」と疑問を呈した。
細川氏は「海上封鎖に自衛隊が直接関与するのは難しい。米国の支援はもちろん行う」「日本も非常に強く懸念している。ノドンというミサイルは日本を射程内に収めている」と釈明に追われた。
事態が緊迫する状況で、首相は翌3月に訪中。李鵬首相に「中国以外に働き掛けをできる国はない」と助力を求めた。だが、李氏は北朝鮮に対する「忍耐」の必要性を強調し、協力に後ろ向きな姿勢に終始。地理的に離れた米国は「根本的な利害関係を持っていない」と述べ、米国の関与をけん制した。
核危機を巡り、同6月にカーター元米大統領が訪朝し、7月に北朝鮮の金日成主席が死去。米朝が10月に「枠組み合意」に調印して収束した。
外務省は原則として作成から30年が経過した外交文書を定期的に公開。東京・麻布台の外交史料館で閲覧できる。