
東京都内を走るJR五日市線。拝島駅でつながるJR青梅線とともに首都近郊のローカル線といった感じですが、かつて共に私鉄だったJR青梅線とライバル関係にあったとか。歴史の波に翻弄されたJR五日市線の紆余曲折を振り返ります
2025年は「JR五日市線」開業100周年!
東京都内を走るJR旅客線の盲腸線は2本ありますが、ともに西多摩エリアを走っています。1本は青梅線、そしてもう1本が五日市線です。いまでは拝島駅で合流し、立川駅で中央線へと接続している両線ですが、かつてはライバル関係にありました。五日市線誕生の経緯とともに改めて振り返ってみましょう
五日市線は昭島市にある拝島駅と、あきる野市にある武蔵五日市駅を結ぶ延長11.1kmの路線ですが、その前身は「五日市鉄道」というローカル私鉄でした。
五日市鉄道が開通したのは、今からちょうど100年前の1925(大正14)年です。この年の4月21日に、拝島―武蔵五日市間で開業を果たしました。この路線は、セメントの原料である石灰石の輸送や、鉄道の空白地帯であった五日市地区の旅客輸送が目的で、停車駅は、東秋留、西秋留、武蔵増戸で1日6往復の運行でした。
そして5か月後の9月20日には、支線の武蔵五日市―武蔵岩井間が開通します。また多摩川の砂利輸送のため支線も引かれ、1926(大正15)年に多摩川駅、1931(昭和6)年に拝島多摩川駅が開業しています。
採掘された石灰石は、五日市鉄道から青梅鉄道、中央本線、山手線、東海道線を経て、川崎にあるセメント工場まで輸送されていましたが、多摩川の砂利輸送も含めて輸送の効率化を図るために、五日市鉄道は立川までの延長を申請し、1930(昭和5)年7月13日には拝島―立川間が開通します。貨物は従来の蒸気機関車で運行され、旅客用にはガソリンカーが運転されました。
青梅線とともに国有化、のちに不要不急線の烙印まで
拝島と立川のあいだに設けられた駅は、南拝島、武蔵田中、大神、宮沢、南中神、武蔵福島、郷地、武蔵上ノ原の8つ。なお、延伸区間は青梅鉄道と並行していたので、立川―拝島間の運賃は客の奪い合いを防ぐために協定が結ばれ、同一とされました。
また、開業当初こそ旅客輸送はふるいませんでしたが、景勝地にハイキングコースが設けられると、次第に観光客が訪れるようになり、それに伴い、秋川渓谷へのハイキング列車や、拝島大師のダルマ市への臨時列車が運行されるなどして賑わうようになりました。
しかし、日本各地に乱立するようになった中小の鉄道会社を整理する目的で、鉄道省が1938(昭和13)年に交付した陸上交通事業調整法によって、五日市鉄道は同じセメント会社系の南武鉄道と1940(昭和15)年に合併、新たに南武鉄道五日市線となります。
その後、太平洋戦争が起きると、1944(昭和19)年には戦時買収により、青梅電気鉄道や奥多摩電気鉄道(工事中)と共に南部鉄道は国有化されました。こうして五日市線は国に移管され、武蔵上ノ原、宮沢、武蔵田中の3駅については廃止されました。
一方、五日市線の拝島―立川間は、青梅線が複線化したことなどもあり、1944年には軍事上撤去しても影響が少ない「不要不急線」として休止が決定、レールや橋脚、枕木などは他の重要線区へと転用されてしまいます。また残った金属類も、武器転用のための金属供出に使われたため、結果そのまま廃線になりました。
ちなみに、廃線となった拝島―立川間の路線跡は、愛称の「五鉄」から「五鉄通り」と命名されて、いまでも地元住民に愛されており、旧大神駅と武蔵田中駅にはモニュメントも置かれています。
40年前までは支線もあった!
一方、石灰石輸送のために引かれた武蔵五日市―武蔵岩井間を結ぶ岩井支線ですが、拝島方面から来た列車は、武蔵五日市駅に停車した後に一度拝島方面に戻り、スイッチバックして北側に延びる支線へと入っていく構造でした。戦後もしばらくの間、旅客輸送が行われていたようですが、1971(昭和46)年に廃止され、同時に武蔵岩井駅も廃止されています。
貨物輸送はその後も続けられたため、途中の大久野駅は貨物駅として存続するものの、次第にトラック輸送に転換されていき、貨物列車の終焉とともに大久野駅、岩井支線ともに1982(昭和57)年、ついに廃止されました。
かつて岩井支線が走っていた場所を訪れると、いまだに線路跡や駅の名残を見ることができます。ただし、遺構によっては私有地内のものもありますので、見学の際は必ず許可をとるようにしてください。
冒頭に記したように、今年(2025年)は五日市線が開通してからちょうど100年の節目です。地元の期待を背負って開業するも、戦争中に不要不急線として一部区間が消えるなど、歴史の波に翻弄された側面も持つ鉄道路線です。わずかに残るその痕跡を訪ね歩いてみると、意外な発見に出会えるかもしれません。