
福岡県にある、歴史的、文化的な遺産が数多く宿る街、「大宰府」をご紹介する後編です。前編はこちら。もうすぐ梅の花の季節。春の旅行に大宰府周辺はいかがでしょうか。
なぜこんな場所につくったのか?
前回、太宰府は外交・防衛の拠点であり、九州地方を統括する国の役所が置かれたところと説明した。太宰府があったのは、福岡県の南西部、博多湾から十数キロも内陸に入った、交通の便がいいとは言えない場所である。
どうして大事な役所を、こんな場所につくったのか?大陸との外交を担当する役所なら、海、玄界灘に近いところにつくるのが常識のはず。そのわけは、当時の国際情勢と密接に関わっている。滅亡した百済を救援しようと朝鮮半島に兵を送った日本は、663年半島西岸の白村江で、唐と新羅の連合軍に歴史的な大敗を喫した。
役割を変えていった大宰府
史跡公園に立って、改めて周囲を見回してみよう。北側の山には朝鮮式山城としてつくられた大野城跡がある。南の山に基肄城(きいじょう)跡、そして博多湾を望む北西方向に太宰府政庁をガードするように、水を貯めた巨大な濠と土塁の水城(みずき)の跡が残る。
海の向こうでの大敗に驚いた大和朝廷が、唐・新羅連合軍の襲来に備える最前線の防衛拠点として、大急ぎで建設した。それが太宰府政庁跡を囲むようにつくられた、これら古城の史跡群だった。やがて大陸との緊張関係が緩むにつれて、防衛拠点だった太宰府は、最新の情報や文化、事物を取り入れる華やかな外交・文化の拠点へと役割を変えていく。
政庁跡に寝転がって、青空を見上げ、風を感じ、耳をすませてみよう。外国からの使節が、京の都から旅人と道真たちが、九州各地からも大勢の人が、訪れて行き交った。茫々とした広がりの向こうに、いろんな言葉や異国の音楽、舞、香りと味覚、梅の花をはじめ咲き誇る花々を感じ取れないだろうか。
時間があれば、名物の梅が枝餅を手に、太宰府天満宮に足を延してみるのもよい。令和から古代へとさかのぼる旅のおススメである。(終わり)