日本初の知的障碍児教育の学校を…命を懸けて行動した社会福祉事業家たち② 石井筆子×石井亮一

北原怜子

現代になりやっと発達障害や知的障害にも様々な種類があることがわかってきて、早期療養を行うことで社会に適応でき、また周囲に認知されることで活躍の場がつくれるという認識になってきています。しかし、世間がそのような意識となったのは最近で、それ以前は、知的障碍者は白痴や痴愚と呼ばれ、働く能力がない者として差別を受け、法令で義務教育の対象からも除外されていました。また世間の風当たりも強く、家柄を気にする時代であったため、病院や自宅の座敷牢に隔離されることもあったといいます。

石井筆子(いしい・ふでこ)は肥前国(長崎県)の大村藩士で男爵の渡辺清の長女として生まれ、華族の令嬢として育てられました。12歳の時に家族で上京し、東京女学校を卒業。幼少より、英語、フランス語、オランダ語に堪能な才媛として『ベルツの日記』にも紹介されています。1880年に皇后の命によりオランダ行使の随行員として女性でただ一人選ばれ、フランスに留学。帰国後、1884年に農商務省官吏の小鹿島果と結婚。華族女学校嘱託としてフランス語の教鞭をとり、鹿鳴館の舞踏会に出かけるなど貴族生活を送っていました。

1886年長女が誕生。半年が経っても首がすわらず発育が遅いことに疑問を抱き、病院で検査をした結果、白痴と診断されます。その後、次女は幼くして没し、1891年に授かった三女も虚弱児で発達障害がありました。近所の噂もひどく、その時の心の支えとなったのが、フランス人の法学者ボアソナードからの助言。真の近代文明とは人が人である限り生命と人格を最大限尊重することが重要であるという「人権」という考え方でした。

筆子は仲間を募り、「婦人教育ノ普及ヲ計リ其徳操ヲ養成スルヲ目的トス」る大日本婦人教育会を結成。女子教育活動や福祉活動を精力的に行います。そんな折、1892年に夫が病死。夫との間に男子がなく、娘二人も障碍者であり婿が取れないと判断した小鹿島家は、末弟に家督を継がせることとし、筆子は離縁されました。実家の渡辺家に戻るも、実母は没しており、父には後妻がいたことから厳しい立場でした。この時期に、震災孤児の保護養育施設の聖三一孤女学院(後の滝乃川学園)の石井亮一を知り訪ねます。亮一の人柄や生徒に同じ目の高さで接する姿に感動し、自分の子どもを預けることにしました。

石井亮一(いしい・りょういち)は鍋島(佐賀県)藩士の子。大須賀家の養子。立教女学校教諭であり、後に立教大学教頭や顕曄女学校校長をしながら、聖公会の支援や私財を投じて、1891年の濃尾大地震の震災孤児をひきとり、全寮制の保護養育施設の聖三一孤女学院を創設します。1898年アーウィン知的障がい学校やセガン・スクール等の視察、知的障碍教育の先駆者エドアール・セガンの未亡人に直接治療教育法や精神薄弱児専門の教育の理論を学ぶため渡米。帰国後、精薄児教育に専念し、その成果を「白痴児、その研究および教育」(1904)にまとめています。同時期に、文部大臣の要請でデンバーにて開催される婦人倶楽部万国大会日本代表として筆子と津田梅子も渡米しており、渡米先で亮一と運命の再会をしています。この時、シカゴの棄児院などの社会事業施設を一緒に見学しました。

帰国後、筆子と津田梅子は華族女学校教師を退職し、梅子は女子英学塾を創立(後の津田塾)、筆子は兼務していた華族女学校幼稚園主事と女紅学校主宰の全てを辞職し、静修女学校校長に専念。また亮一も立教大学と顕曄女学校を辞任、大須賀家からも離籍し石井姓に戻し、聖三一孤女学校を滝乃川学園と改称して学園長となり、知的障碍児童を積極的に受け入れました。これは日本初の知的障碍児教育の学校となります。1902年に筆子は静修女学校閉校に伴い校長を辞任し、女子教育は梅子に一任。自身は滝乃川学園に長女と住み込みで支えることを決意。この時に持ち込んだのは結婚祝いで父から贈られたピアノ。このピアノは現存しており、日本最古のピアノとして文化財指定されています。

1903年、周囲の反対を押し切って、亮一と筆子は結婚。この時、亮一は37歳、筆子は43歳でした。今まで良家の子女を教育してきた環境とは正反対の環境でありましたが、亮一が米国から持ち帰った知的障碍教育の理論を遂行。まず日常生活を通して子供たちの五感を刺激させ、脳の発達を促す指導を苦戦苦闘しながら指導し続けます。知的障碍者が白痴児とレッテルを貼られ育てられた生活面を改善させることで、少しずつできなかったことができるようになる姿に驚かされます。また併設された保母養成部で英語、歴史、習字、裁縫などを教えました。

1920年男子児童の火遊びが原因で滝乃川学園が全焼する事件が起きました。取り残された園児を救出するために筆子ははしごを利用し二階にあがる際、転倒し片足を痛め、以後、不自由な身となります。この火事で園児六人が亡くなり、学園の再建のメドも立たず、資金もなく、亮一は学園閉鎖を決めました。それを聞きつけた、東京女学校時代の同級生の穂積歌子(法律家の穂積陳重の妻)と、父の渋沢栄一が来て、学園の援助を申し出ます。また貞明皇后(大正天皇の皇后)など華族女学校時代の教え子たち、元同僚、各種財界人たちの寄付金が総額10万円(現在の価格で4000万円)集まりました。これにより、財団法人として学園を再建。初代理事長に渋沢栄一をむかえ、改めてスタート。筆子はこの頃より、童話集を多数出版しています。

1937年(昭和12年)亮一が亡くなります。また戦争へと突入していき、学園生や職員に召集令状が届くなど、学園経営の資金繰りが厳しい状況に陥ります。学園を閉鎖するべきかと思い悩んでいた筆子の脳裏に亮一の言葉が蘇ります。

「人は誰かを支えている時には自分のことばかり考えるけど、実は同時に相手からどれだけ恵をもらっているかは気付かないものだ。 これを忘れてはいけない」。
筆子は自身が2代目学園長に就任し、滝乃川学園の存続を決定。半身不随の身でしたが、職業訓練の設備拡充と一般小学校へ養護学級設置への働きかけを理念として活動しました。

石井筆子 1865(慶応1.4.27)~ 1944.1.24(昭和19)
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/ishii_hu.html
石井亮一 1867(慶応3.5.25)~ 1937.6.14(昭和12)
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/ishii_r.html
埋葬場所: 8区 2種 13側 1番
※墓石には両名の生没年月日が刻むが、石井亮一との再婚の反対の声を黙らせるため、叔父の渡辺昇が戸籍の出生を変え、二歳差に変更させたといわれている。本当は4歳多い、1861(文久1.4.27)生まれで、享年82歳が正しい。なお叔父の渡辺昇は坂本龍馬から頼まれ薩長同盟に大きな働きかけをした維新の志士で、後に大阪府知事や会計検査院長を歴任した人物。筆子が滝乃川学園に持ち込んだピアノを海外から輸入した人物でもある。
※筆子没後の滝乃川学園3代目学園長は筆子の弟の渡辺汀が就任。

【筆者プロフィール】
小村大樹(おむら・だいじゅ)
掃苔家・多磨霊園著名人研究家
1976年生まれ。1997年、大学生の時に多磨霊園の横にある石材屋でバイトをしたことをきっかけに多磨霊園に眠る著名人の散策を始める。1998年、当時インターネットが出始めた頃より「歴史が眠る多磨霊園」のホームページを制作。2018年開設20周年を迎える。
足で一基一基お墓を調査し、毎週1,2名ずつ更新をすることを20年間休まず実施(現在も継続中)。お墓をきっかけに眠っている著名人の生き様や時代背景の歴史を学ぶことをコンセプトにしており、掲載している人物は3000名を超える。
サイトを通じて多くの著名人のご遺族とも親交。歴史学者や郷土史家、出版社らの協力も惜しまず提供。一橋大学名誉教授の加藤哲郎『飽食した悪魔の戦後 731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』(花伝社)では論文として考察される。『有名人の墓巡礼』(扶桑社ムック)では一部執筆を担当。中学社会科・高校地理歴史の免許を取得し、通信制高校で教壇にも立つ。
『歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだけではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことだ』『私が著名人だと思った人物は全て著名人である』がモットー。


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◆歴史が眠る多磨霊園 http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/
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