令嬢が自ら廃品回収を…映画化にも 命を懸けて行動した社会福祉事業家たち① 山室軍平×北原怜子×賀川ハル

山室軍平碑

損得勘定ではなく、私財を投じて人に尽くした生き方をした方々も多磨霊園には多く眠ります。社会福祉事業家と称された特筆すべき人物たちを紹介したいと思います。

プロテスタントのキリスト教の慈善団体「救世軍」。1865年にイギリスの牧師、ウィリアム・ブースと妻キャサリンによって、ロンドン東部の貧しい労働者階級に伝道するためにキリスト教伝道会を創設。軍隊式の組織編制、メンバーの制服・制帽・階級章類の着用、軍隊用語の使用などを採用し、1878年創設者のウィリアムが「Not volunteer army, but Salvation army(義勇軍に非ず、救いの軍なり)」という天啓を受けに「救世軍」と改称。現在は特別協議資格を持つ国連NGOで、世界128の国と地域で活動されています。

日本では、1895年に山室軍平(やまむろ・ぐんぺい)らにより布教活動が行われました。岡山県出身。乏しい農家に生まれ幼少期に養子に出されるも戻り、上京して活版工となります。教会主催の英語学校で学んだことでキリスト教に入信。苦学して築地伝道学校、同支社大学神学校で学び、1891年の濃尾地震の際に、同郷の石井十次と孤児救済の活動を行いました。1895年に英国救世軍の来日を機に従軍。日本最初の士官として日本救世軍の創設発展に尽力。1900娼妓自由廃業運動を開始し、労働紹介所の設置、歳末慈善鍋(社会鍋)、児童虐待防止運動、結核療養、婦人・児童保護、貧困者医療などに携わりました。また救世軍ブース記念病院、救世軍療養所を開設。1930年にアジアで初めて中将となりました。

救世軍士官墓地

多磨霊園には日本救世軍財団の墓所が3ヶ所あります。救世軍士官墓地(士官)が7区1種5側1番、救世軍人墓地(チャールズD)が2区2種2側23番、救世軍社会部墓地(社会事業)が2区2種14側42番にあり、救世軍として活動した英霊が眠ります。

戦後間もない1950年頃、仕事のない人々を日雇いで廃品回収をさせ再生工場へ送る事業が行われており、その廃品仕切場となっていた東京の墨田公園の一角を「蟻の町」(蜂の会)と称し、労働者(バタヤ)の生活共同体がありました。バタヤの生活は貧しく苦しく、子どもたちの教育も行き届いていませんでした。この町にあえて移り住み、子どもたちの教育にあたったのが「蟻の町マリア」と称され親しまれた北原怜子(きたはら・さとこ)です。

怜子は東京出身。父は経済学者の北原金司(同墓)の三女。桜蔭高等女学校、昭和女子薬学専門学校を卒業した令嬢。1949年光塩女子学院にて受洗。洗礼名はエリザベス、堅信名はマリア。1950年東京都から強制立ち退きを阻止するべく蟻の町に教会を設立し孤児救済に動いていたゼノ神父と出会い、自らも蟻の町での奉仕を始めました。怜子は次第に持てる者が持たない者を助けるという姿勢に疑問を抱くようになり、自ら「バタ屋」となって廃品回収を行うようになり、町の子供たちの教育にあたるようになります。その姿は称賛されましたが、体力の無理が祟り結核を患ってしまいます。一端、療養のために離れますが、病状が悪化し治療方法がないと悟ると、再び蟻の町に戻りました。末期の状況の怜子は十字架が立った建物の近くに住み、東京都から幾度となく立ち退き要求が出される前で、ひたすら祈り続けました。1953年1月19日東京都は蟻の会の要求を全面的に認め、蟻の町の8号埋立地(枝川:現在の潮見二丁目)への移転許可を決定。怜子はその決定の四日後に28歳の若さで息を引き取りました。この年に松竹は「蟻の街のマリア」と題して映画化しています。

スラム救済事業を行っていた賀川豊彦の妻の賀川ハル(かがわ・はる)も夫と共に救済事業を行い、夫亡き後も事業を引き継ぎ尽力したひとりです。神奈川県横須賀出身。旧姓は芝。父の転勤で神戸に転居し、印刷女子工員をしていました。1911年に豊彦のスラム救済事業を知り、仕事を続けながら奉仕活動に参加。1913年に豊彦と結婚。スラムに住み巡回看護婦の仕事を毎日続けるうち、悪性のトラホームに感染し右目を失明してしまいます。それでも救済活動を継続し、1921年神戸の川崎・三菱造船所の労働争議に覚醒婦人協会会長として労働者の救援活動、翌年、豊彦とともに財団法人イエス団を設立し理事に就任、1923年関東大震災の被災者援護、1931年松沢幼稚園開設、1938年福祉法人雲柱社の理事と精力的に活動。戦後、1956年から日本基督教婦人矯風会の理事を務め、1960年に豊彦没後は、イエス団、雲柱社の理事長として夫の事業を引継ぎました。1981年に69年間に及ぶ社会福祉活動の功績により名誉都民として顕彰されました。

山室軍平

山室軍平 1872.9.1(明治5.7.29)~ 1940.3.13(昭和15)
埋葬場所: 15区 1種 11側 1番
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/Y/yamamuro_g.html
※同墓には先妻で日本救世軍の母と称された山室機恵子、後妻の山室悦子、軍平と機恵子との長女の山室民子、長男の山室武甫が眠り、全員社会事業家として活躍。
※山室軍平墓所すぐ近く、バス通りに面する15区の角に「山室軍平碑」が建つ。この碑にはコリント人への手紙第二6章10節が刻み、裏面に自筆の言が刻む。

北原怜子

北原怜子 1929.8.22(昭和4)~ 1958.1.23(昭和33)
埋葬場所: 12区 1種 25側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/K/kitahara_s.html
※「ゼノ神父」ことゼノ・ゼブロフスキーはポーランド人で、墓所は多磨霊園にほど近い、府中カトリック墓地にある。この墓地には作家の遠藤周作やウルトラマンの円谷英二らも眠る。

賀川ハル

賀川ハル 1888.3.28(明治21)~ 1982.5.5(昭和57)
埋葬場所: 3区 1種 24側 15番 (松澤教会会員墓地)
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/K/kagawa_h.html
※豊彦・ハル夫妻が眠る松澤教会会員墓地には百名を超える会員も眠る。
長男で教会音楽家の賀川純基、政治家の杉山元治郎、社会運動家の村島帰之、小説家の鑓田研一、オリジン電気創業者の後藤安太郎、洋画家の佐竹徳など著名な方々も眠る。

【筆者プロフィール】
小村大樹(おむら・だいじゅ)
掃苔家・多磨霊園著名人研究家
1976年生まれ。1997年、大学生の時に多磨霊園の横にある石材屋でバイトをしたことをきっかけに多磨霊園に眠る著名人の散策を始める。1998年、当時インターネットが出始めた頃より「歴史が眠る多磨霊園」のホームページを制作。2018年開設20周年を迎える。
足で一基一基お墓を調査し、毎週1,2名ずつ更新をすることを20年間休まず実施(現在も継続中)。お墓をきっかけに眠っている著名人の生き様や時代背景の歴史を学ぶことをコンセプトにしており、掲載している人物は3000名を超える。
サイトを通じて多くの著名人のご遺族とも親交。歴史学者や郷土史家、出版社らの協力も惜しまず提供。一橋大学名誉教授の加藤哲郎『飽食した悪魔の戦後 731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』(花伝社)では論文として考察される。『有名人の墓巡礼』(扶桑社ムック)では一部執筆を担当。中学社会科・高校地理歴史の免許を取得し、通信制高校で教壇にも立つ。
『歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだけではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことだ』『私が著名人だと思った人物は全て著名人である』がモットー。

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◆歴史が眠る多磨霊園 http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/
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