
東京市の公園墓地の建設計画の中で早くから構想にあったのは、碑石形像場所をつくることでした。生前の治績を刻んだ碑石や、在りし日の温容を懐かしむことができる形像などを、霊園内に設置することは、造園的観点からみても、造形物が公園墓地の点景となり、墓地全体の品位を高めると考えられました。
多磨霊園開設以降、園路の角や園地植込みの一角など、人目につくところに様々な人物等の碑石形像類が設置されました。私が数十年昔に多磨霊園管理事務所内に保管されている碑石形像区域として許可された一覧表を拝読する機会があり、それによると34か所あります。この中に、731部隊の精魂塔である「懇心平等万霊供養塔」があり公表に繋がりました。
また、多磨霊園管理事務所が認めている34か所に加え、私個人的には16区1種20側の「大山家」の墓所内に建つ『十五世名人 大山康晴「王将」碑』を加えています。一般墓所内で大山康晴の墓所ではありませんが、必見の価値があると感じています。更に平成4年に建立されたバス通りにポツンと佇んでいたお地蔵様を勝手ながら「バス通り地蔵尊」と命名し加えていましたが、いつの日かお地蔵様は撤去されており現存はしません。
十五世名人 大山康晴「王将」碑
碑石所在地: 16区 1種 20側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/GRAVESTONE/oushou_hi.html
幻の碑石とされるのもあり、財界人で京王電気軌道株式会社社長などを務めていた穴水熊雄(あなみず・くまお)の記念碑を、穴水家墓所近くの10区に建立する予定で使用許可も受けていましたが、戦争悪化のため建立困難で断念したというのもあります。
穴水熊雄は山梨県出身。旧苗興水。穴水家の養子となり実家を継ぎましたが志は中央にあったので、山梨より上京して実業家を目指します。多年の刻苦と努力を重ね遂に目的を達し大日本電力株式会社社長に就任。更に京王電気軌道株式会社(京王帝都電気の前身)社長となり、その経営した事業は二十数社に及び、財界人として活躍しました。
穴水熊雄 埋葬場所: 10区 1種 7側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/anamizu_k.html
※戦争悪化のため碑石形像は叶わなかったが、墓所内には「遷墓の記」の碑が建つ。
【筆者プロフィール】
小村大樹(おむら・だいじゅ)
掃苔家・多磨霊園著名人研究家
1976年生まれ。1997年、大学生の時に多磨霊園の横にある石材屋でバイトをしたことをきっかけに多磨霊園に眠る著名人の散策を始める。1998年、当時インターネットが出始めた頃より「歴史が眠る多磨霊園」のホームページを制作。2018年開設20周年を迎える。
足で一基一基お墓を調査し、毎週1,2名ずつ更新をすることを20年間休まず実施(現在も継続中)。お墓をきっかけに眠っている著名人の生き様や時代背景の歴史を学ぶことをコンセプトにしており、掲載している人物は3000名を超える。
サイトを通じて多くの著名人のご遺族とも親交。歴史学者や郷土史家、出版社らの協力も惜しまず提供。一橋大学名誉教授の加藤哲郎『飽食した悪魔の戦後 731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』(花伝社)では論文として考察される。『有名人の墓巡礼』(扶桑社ムック)では一部執筆を担当。中学社会科・高校地理歴史の免許を取得し、通信制高校で教壇にも立つ。
『歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだけではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことだ』『私が著名人だと思った人物は全て著名人である』がモットー。