当初は不人気…人気霊園となったのはある人物のおかげだった…『多磨霊園の歴史』

※参考引用資料:<『多磨霊園』村越知世>

多磨霊園は東京都府中市と小金井市をまたいだ敷地に、1923年2月23日(大正12年)に都営霊園として開園。当初の呼び名は「多磨墓地」。「多摩」ではなく「多磨」であるのは、現在の東京都府中市東部に位置する多磨霊園一体の地域名が「多磨村」であったことから由来します。1954年4月1日(昭和29年)多磨村と府中町、西府村が合併し府中市となり多磨村は廃止となりました。現在東京都営の霊園は青山、雑司ヶ谷、谷中、染井、八柱、小平、八王子、そして多磨霊園の八か所です。開設された順からすると多磨霊園は五番目です。

都営霊園の歴史の始まりは、徳川幕府から明治新政府になったところまでさかのぼります。明治新政府となり様々な変革が起こりました。お墓の在り方もそのひとつです。江戸時代は年貢という税を納めさせる制度を行っており、それを管轄していたのが寺院でした。お寺の檀家制度は今でいう役所のような役割もあり、その村に誰が住んでいるのかを管轄している機関でもありました。その藩幕体制下の寺請制度廃止による寺院墓地からの離脱等の理由により、市民のための新たな墓地が必要となります。

そこで明治政府は明治5年7月から、皇族の埋葬地であった青山百人町の足し山(立山)と、渋谷羽根沢村の一部を一般市民墓地として埋葬許可をしたのが始まりです。更に11月、青山元郡上潘邸跡、雑司ヶ谷元鷹部屋敷跡、上駒込村元建部邸跡、深川敷矢町元三十三間堂跡の四か所を追加。明治7年6月太政官布達により「墓地取扱規則」が公布され、規制に基づき東京府は上述した六か所に、谷中(元天王寺)、橋場(小塚原旧火葬地)、亀戸(出村罹漢寺)を加え、九か所を市民の共葬地としました。明治22年市制施行により東京市が誕生すると、5月「市区改正設計」(都市計画)における「共葬墓地」に指定されました。これは後に、昭和18年東京都制施行に伴い東京都墓地(のちに霊園)となり、現在に至ります。

明治後期には東京市内の人口が増えてきたため、深川、羽根沢を廃止。大正時代に入ると、更なる東京市街地の人口増加に伴い、東京市外の墓地の造営が必要となりました。当時、東京市公園課長の井下清(いのした・きよし)が、欧米諸国の墓地研究を行い、1919年(大正8年)より公園墓地の構想・計画を提出しました。

1920年12月14日に東京都市計画多磨共葬墓地決定、告示され、その面積は30万坪。翌年より東京市土木部公園課を創設し、墓地掛が誕生。年末には用地買収が完了します。これに伴い、亀戸、橋場の廃止と、都内寺院の墓地を多磨霊園内への移設を促していくことになります。1922年1月より工事着手され、1923年2月23日に東京市墓地使用条例制定、約三万坪造成、建設費約125万円。東京市多磨墓地埋葬場所受託規定制定されました。この時期の東京市の人口は約230万人です。

公園設計者・多磨霊園設計者である井下清は京都府出身。1905年に東京高等農学校を卒業し、東京市役所公園課に奉職。井の頭公園、武蔵野博物館、祖先の村、孔雀園などの造成に携わります。全国の植樹祭や緑化推進協議会の会長。東京都の文化財保護委員会の専門委員などを務め、1923年(大正12年)公園課長に就任し、わが国初の公園墓地「多磨墓地」の誕生の発起人として携わりました。1946年定年まで40年7ヶ月の長きにわたり東京のランドスケーププランナーを務め、その後は、東京農業大学教授となりました。

井下 清  埋葬場所: 8区 1種 18側 18番
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/inoshita_k.html

『多磨霊園誕生』

1923年4月20日から供用開始されました。ところが開園当初は全く不人気で、都内の寺院の墓地移転も活発ではありませんでした。初年度の使用者は578人しかいなかったという記録が残っています。

開園の同年9月1日関東大震災が発生。関東大震災後の都市計画により、罹災寺院の檀家墓所の改葬を求めるため、東京市が寺院専属区画を多磨霊園の3区・4区・5区・7区の一部に設けました。当局の設置にも関わらず従ったのはわずか14寺院のみでしたが、多磨霊園が大正時代にできた霊園にも関わらず、この区域に江戸時代や明治期の墓所が多くあるのはそのためです。

開設当初は1区から22区までの広さでしたが、都内から離れていることと、アクセスが不十分であったことなどから不人気が続きました。

1926年中央線武蔵小金井駅開設、1929年北多摩鉄道(西武多摩川線)開通で多磨墓地前駅(現在の多磨駅)開設、同年には京王電気軌道多磨駅(のちの京王線多磨霊園駅)開設。多磨霊園までの乗合バス(京王バス)なども開通とアクセスが徐々に良くなります。また都市計画や青山霊園の縮小計画での墓所移転など、半ば強制的に多磨霊園への移行を進めました。それでも、慣れ親しんだ寺院からの改葬には腰は重く、加えて郊外というイメージが強かった多磨霊園の人気はよくありませんでした。しかし、ある人物が多磨霊園に眠ることが決まり、爆発的に人気霊園へとなります。

日露戦争の英雄の東郷平八郎が多磨霊園に埋葬。1934年6月5日(昭和9年)に東郷平八郎が死去し国葬が営まれることになります。東郷家は青山霊園に墓所を持っていましたが一般的な墓所であったため国葬にふさわしくないという理由で、東京市が名誉霊域をつくり、その地に埋葬することを決定。これにより、東郷平八郎と同じ霊園で眠りたいという声が高まり一気に人気が高まりました。

1935年から「多磨墓地」という名称を「多磨霊園」に改称。1936年の二・二六事件で亡くなった重鎮たちのお墓が多磨霊園に建立され、1938年に二・二六事件で命を落とした高橋是清の旧宅が多磨霊園の有料休憩所として移築され「仁翁閣」として開設(1975年10月に閉鎖され、現在は小金井公園の江戸東京たてもの園に復元)。翌年には区域拡張で面積40万2,302坪となり、以降もどんどん拡張していき、現在の26区までの広さになったのは、1963年(昭和38年)。その後は面積拡張ではなく、芝生墓地、壁墓地、ロッカー式墓地みたま堂、合葬式墓地などの設置となっていきます。

【筆者プロフィール】
小村大樹(おむら・だいじゅ)
掃苔家・多磨霊園著名人研究家
1976年生まれ。1997年、大学生の時に多磨霊園の横にある石材屋でバイトをしたことをきっかけに多磨霊園に眠る著名人の散策を始める。1998年、当時インターネットが出始めた頃より「歴史が眠る多磨霊園」のホームページを制作。2018年開設20周年を迎える。
足で一基一基お墓を調査し、毎週1,2名ずつ更新をすることを20年間休まず実施(現在も継続中)。お墓をきっかけに眠っている著名人の生き様や時代背景の歴史を学ぶことをコンセプトにしており、掲載している人物は3000名を超える。
サイトを通じて多くの著名人のご遺族とも親交。歴史学者や郷土史家、出版社らの協力も惜しまず提供。一橋大学名誉教授の加藤哲郎『飽食した悪魔の戦後 731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』(花伝社)では論文として考察される。『有名人の墓巡礼』(扶桑社ムック)では一部執筆を担当。中学社会科・高校地理歴史の免許を取得し、通信制高校で教壇にも立つ。
『歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだけではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことだ』『私が著名人だと思った人物は全て著名人である』がモットー。


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◆歴史が眠る多磨霊園 http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/
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