戦時中の多磨霊園『八紘一宇のシンボル?「噴水塔」』~戦争と多磨霊園~

多磨霊園のシンボル

名誉霊域通りの先に霊園のシンボルともいえる巨大な、コンクリート造りの噴水塔があります。塔は八角形で高さは15メートル、1930年6月(昭和5年)に建設されました。機銃弾痕が残っています。「八紘一宇」(はっこういちう)をイメージして建てられたといわれていますが、これはその後の戦時的背景で意味合いが変わっていたのであろうと推測します。

多磨霊園のシンボルの内側

「八紘一宇」を辞書で調べると、大東亜共栄圏建設の理念として用いられた言葉。第2次近衛文麿内閣が決定した基本国策要綱の中の〈皇国ノ国是ハ八紘ヲ一宇トスル肇国ノ大精神〉に由来。日本書紀の〈八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)にせむ〉を、全世界を一軒の家のような状態にすると解釈したもの。日本の大陸進出正当化に利用された。とあります。

名誉霊域通りの碑

本来のこの語については侵略思想を示すものではなく、人道の普遍的思想を示すものにすぎないという論であったことがわかってきており、元々は1903年(明治36年)に田中智学が国体研究に際して日本的な世界統一の原理とした造語として「八紘為宇」として使用されていました。

それを、1940年(昭和15年)に近衛文麿が前述の言葉を公式の場で使用し、西暦1940年は皇紀(神武紀元)2600年に当たり、「八紘一宇」の言葉が流行、政治スローガンになっていったという背景があります。よって、辞書に書かれていることは、1940年以降の「八紘一宇」の言葉の意味であることがわかります。よって多磨霊園の噴水塔は、1930年に建ったので解釈が異なっていたはずです。もしくは後付けでそう解釈されただけかもしれません。

掩体壕の看板

戦時中の多磨霊園は近くに陸軍調布飛行場があり、帝都防空戦戦闘機隊が置かれ、霊園上空は頻繁に飛行機が飛び交う場所でした。戦争末期には調布飛行場の部隊の出張所が仁翁閣に置かれ、無料休憩所は飛行機修理の工場になりました。また仕事が減った石材屋には中島飛行機会社の機材が運ばれ、石の細工場は飛行機製造場と変わりました。飛行場から霊園まで誘導路を作り、園内に飛行機を格納。霊園内周辺にも飛行機を隠す掩体壕(えんたいごう)跡が今でも多数残っています。

掩体壕(大沢1号)

このように戦時中の多磨霊園は軍事色が強い場所となり、いつしか八角形でつくられた噴水塔が「八紘一宇」のシンボルとされていったのでしょう。また名誉霊域道と噴水塔を直線で結ぶ先端に、敗戦末期に「敬仰忠烈」の忠霊塔も建てられました。

敬仰忠烈の忠霊塔の外観

忠は「まごころ」、霊=烈、塔=碑、「忠烈碑」ともいいます。忠烈=忠勇義烈。忠義で勇気があり、正義の心が強く激しいという意味です。東京都長官をしていた陸軍大将の西尾寿造(にしお・としぞう)の書で建立されました。皮肉にも建立した半年後に敗戦を迎えます。

敬仰忠烈の忠霊塔の文字

西尾は鳥取県鳥取市出身。士族の西尾重蔵の四男として生まれ、西尾幸太郎の養子となります。1902年に陸軍士官学校を卒業し、日露戦争に出征。陸軍大学校を首席で卒業し、参謀本部委員、陸相秘書官などを歴任し、各連隊長、旅団長、参謀本部長を経て、1937年に近衛師団長に親補され、同年支那事変が始まると、第2軍司令官となりました。1938年教育総監、翌年に陸軍大将となり、同年に新設された支那派遣軍総司令官兼第13軍司令官に就任。1941年軍事参議官となり、1943年に予備役となって退きます。そして、1944年武人らしい剛腹誠実な人柄を見込まれて東京都長官を任ぜられました。太平洋戦争末期の就任で、在任中に東京大空襲や終戦を経験します。戦後はA級戦犯として逮捕命令が出、拘留されましたが、釈放されています。

西尾寿造さんのお墓

敬仰忠烈(忠霊塔)
碑石所在地: 20区1種51側と58側の間(名誉霊域道小金井方)
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/GRAVESTONE/churetsu.html

西尾寿造  埋葬場所: 16区 1種 8側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/N/nishio_to.html

【筆者プロフィール】
小村大樹(おむら・だいじゅ)
掃苔家・多磨霊園著名人研究家
1976年生まれ。1997年、大学生の時に多磨霊園の横にある石材屋でバイトをしたことをきっかけに多磨霊園に眠る著名人の散策を始める。1998年、当時インターネットが出始めた頃より「歴史が眠る多磨霊園」のホームページを制作。2018年開設20周年を迎える。
足で一基一基お墓を調査し、毎週1,2名ずつ更新をすることを20年間休まず実施(現在も継続中)。お墓をきっかけに眠っている著名人の生き様や時代背景の歴史を学ぶことをコンセプトにしており、掲載している人物は3000名を超える。
サイトを通じて多くの著名人のご遺族とも親交。歴史学者や郷土史家、出版社らの協力も惜しまず提供。一橋大学名誉教授の加藤哲郎『飽食した悪魔の戦後 731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』(花伝社)では論文として考察される。『有名人の墓巡礼』(扶桑社ムック)では一部執筆を担当。中学社会科・高校地理歴史の免許を取得し、通信制高校で教壇にも立つ。
『歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだけではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことだ』『私が著名人だと思った人物は全て著名人である』がモットー。


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◆歴史が眠る多磨霊園 http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/
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