全国生放送中に刺殺、現在も度々放送 『浅沼稲次郎の刺客と1960年という激動の年』 浅沼稲次郎×馬島僴×麻生良方×浅沼享子

浅沼稲次郎さんのお墓

1960年(昭和35年)は戦後日本にとって激動の年でした。安保改定阻止国民会議を通じて安保闘争が起こりました。これを指導したのが日本社会党委員長の浅沼稲次郎です。

 浅沼稲次郎(あさぬま・いねじろう)は東京三宅島出身。軍人を希望するも、陸軍幼年学校を2回、陸軍士官学校を2回、海軍兵学校を4回受験し、全て不合格。1918年(大正7年)早稲田大学予科に入学します。在学中から活発で、相撲部の副主将をつとめながら雄弁会に属し、民人同盟会・建設者同盟を組織し、ロシア飢餓救済運動、軍事研究団反対運動を指導しました。

 大学卒業後も社会主義運動を継続し、1925年日本初の単一無産政党である農民労働党書記長に27歳の若さで抜擢されるも、結党わずか3時間で政府の命により解散。翌年、日本労働党に参加。1932年(昭和7年)無産政党を糾合して、全国労農大衆党が結成されるやこれに参加。麻生久(多磨霊園に眠ります)に心酔し、国家社会主義路線を支持、中央常任委員を務めます。1933年東京市会議員、1936年衆議院議員に初当選。体調不良のため戦時中の立候補を辞退したことで、戦後の公職追放を免れることになります。

 戦後、日本社会党創立に参加し組織部長になりますが、指導的立場であるトップメンバーが次々と公職追放されたため、浅沼が中心的存在となりました。1948年書記長に就任。1951年のサンフランシスコ講和条約や日本安全保障条約をともに反対する左派と、賛成する右派が社会党内で対立し、党内をまとめきることができずに社会党は右左分裂を許してしまいます。浅沼は右派社会党の書記長となるも、1955年分裂していた右左の統一を実現させ、日本社会党書記長に就任。そして、1960年に第3代目の日本社会党委員長に就任しました。

浅沼稲次郎さんのお墓

 60年安保闘争の先頭に立ち、米国との安保条約破棄を目指します。結果、岸信介首相を辞職に追い込みますが、破棄までは勝ち取ることはできませんでした。同年10月12日に日比谷公会堂での自民・社会・民主3党首立会演説会が催され、浅沼が演説中に突然壇上に上がってきた右翼少年の山口二矢(おとや)に刺殺されました。享年61歳。この凶弾に倒れる様子は全国生放送されていたため現在も度々放送されるショッキングな事件です。

 浅沼稲次郎は「人間機関車」と称され、行動型の現実政治家であったため、注目されることも多く、度々選挙の時は刺客を送り込まれることがありました。1932年1月21日(昭和7年)第18回衆議院議員総選挙に全国労農大衆党から出馬。“帝国主義戦争絶対反対”をスローガンとして掲げていた選挙運動の投票前夜、社会民衆党の公認候補の馬島僴が、「満州を支那に返せという大衆党(浅沼)は国賊である」とのビラを全選挙区にばらまきました。この選挙前夜の中傷と妨害に怒り、浅沼派の運動員40人が馬島の事務所を襲撃します。馬島派運動員20人がこれに応戦して負傷者を出す大乱闘となり、運動員は全員検挙。この乱闘の結果、東京4区から立候補した浅沼と馬島は共に落選。当選した同選挙区4名の中には朝鮮人初の代議士となる朴春琴(中立・新人)がいました。全体の選挙結果は浜口雄幸内閣の民政党(146議席)が敗北し、政友会(303議席)が圧勝するという番狂わせが起き、馬島の社会民衆党は3議席、浅沼の労農大衆党は2議席、その他は12議席という結果でした。

馬島僴さんのお墓

 馬島僴(まじま・ゆたか)は徳島県出身。愛知県立医専を卒業後、医者となり、賀川豊彦の神戸スラムでの貧民救済運動に共鳴して、貧困層に無料で診察を施す友愛診療所を設立し医療救済にあたりました。1920年に欧米に留学し、シカゴ大学やベルリン大学で産児調節を学び、帰国後は海外で学んだ避妊法を日本で初めて紹介。日本人用に改良した馬島ペッサリーを考案しました。また関東大震災の被災者救済運動や、産児調節運動を推進しリーダーとして活動。1928年(昭和3年)東京に労働者診療所を開設し、翌年東京市議会議員にもなります。そして、1932年の衆議院議員選挙出馬に伴い、浅沼と共倒れしてしまいました。戦後、吉田茂首相の依頼で日本人口爆発の対策指導、中国の周恩来首相の依頼で、中国人口爆発対策の指導を行いました。

馬島僴さんのお墓

 1960年、日本社会党委員長として先頭に立ち安保闘争で奮闘した浅沼稲次郎は、決着した後の秋に行われた第29回衆議院議員総選挙にて東京1区から出馬します。同区の刺客として対立候補になった人物は、民社党の麻生良方。浅沼が師匠として仰いだ麻生久の息子であり、浅沼の秘書を務めていたいわば教え子です。

麻生良方さんのお墓

 麻生良方(あそう・よしたか)。は東京で生まれ、早稲田大学を中退し、1950年(昭和25年)社会党本部に入り、浅沼稲次郎の秘書になります。1960年社会党を離党し民社党の結成に参加。そして、自身の師匠である浅沼が出馬する東京1区から自らも刺客として立候補しました。しかし、浅沼が暗殺されてしまいます。突然の訃報に対して、社会党は浅沼の妻の浅沼享子を代理で立候補。見事当選を果たします。一方、対立候補の麻生良方は裏切り者と批判され落選。次選挙以降は麻生良方が当選(通算4回)しました。

 最後に、夫の急死に担ぎ上げられ立候補し衆議院議員になってしまった浅沼享子(あさぬま・きょうこ)は、東京出身。1925年頃、喫茶店で働いているところに、その喫茶店が社会主義運動の活動家のたまり場となっていた縁で、浅沼稲次郎と出会い、結婚。稲次郎の妻となってからは、公私にわたり夫を助けました。夫婦は生涯風呂なしアパート住まいの庶民派でした。1945年に自らも社会党に入り、婦人問題研究会常務理事をつとめていました。この流れがあったこともあり、夫が暗殺された後、スムーズに担ぎ上げられました。なお、対立候補の麻生良方を破り東京1区で二位当選しましたが、この時のトップ当選者は、自由民主党公認の安井誠一郎でした。全員多磨霊園に眠っています。

浅沼稲次郎  埋葬場所: 18区 1種 3側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/asanuma_i.html

馬島 僴  埋葬場所: 18区 2種 56側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/M/majima_y.html

麻生良方  埋葬場所: 9区 1種 13側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/asou_y.html

浅沼享子  埋葬場所: 18区 1種 3側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/asanuma_kyo.html

※墓石は前面「浅沼稲次郎之墓」。裏面は妻の浅沼享子の名も刻みます。墓石後ろの壁には、左側に浅沼稲次郎直筆の「解放」、右側に浅沼稲次郎の碑文があります。

※麻生良方の墓石は父の「麻生久之墓」と川上丈太郎の書で刻みます。

【筆者プロフィール】
小村大樹(おむら・だいじゅ)
掃苔家・多磨霊園著名人研究家
1976年生まれ。1997年、大学生の時に多磨霊園の横にある石材屋でバイトをしたことをきっかけに多磨霊園に眠る著名人の散策を始める。1998年、当時インターネットが出始めた頃より「歴史が眠る多磨霊園」のホームページを制作。2018年開設20周年を迎える。
足で一基一基お墓を調査し、毎週1,2名ずつ更新をすることを20年間休まず実施(現在も継続中)。お墓をきっかけに眠っている著名人の生き様や時代背景の歴史を学ぶことをコンセプトにしており、掲載している人物は3000名を超える。
サイトを通じて多くの著名人のご遺族とも親交。歴史学者や郷土史家、出版社らの協力も惜しまず提供。一橋大学名誉教授の加藤哲郎『飽食した悪魔の戦後 731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』(花伝社)では論文として考察される。『有名人の墓巡礼』(扶桑社ムック)では一部執筆を担当。中学社会科・高校地理歴史の免許を取得し、通信制高校で教壇にも立つ。
『歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだけではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことだ』『私が著名人だと思った人物は全て著名人である』がモットー。

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◆歴史が眠る多磨霊園 http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/
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