
歴代総理の中で最も本人が望まずに就任してしまい、史上最低内閣と言われているのが、第33代(1937.2.2-1937.6.4)総理大臣を務めた林銑十郎です。
林銑十郎(はやし・せんじゅうろう)は石川県金沢出身。陸軍軍人として日露戦争に従軍して活躍し、参謀本部員やドイツ留学、連隊長、旅団長など様々な要職を歴任します。1930年(昭和5年)に朝鮮軍司令官に就任。1931年9月18日に関東軍の板垣征四郎大佐と石原莞爾中佐が首謀し、南満州鉄道を爆破した柳条湖事件が勃発。関東軍が画策したことが後に発覚しますが、その時は中国側の破壊工作と関東軍は発表し、ただちに満州地方を勢力下に収めました。これに追随する形で朝鮮軍の強硬派参謀の進言を鵜呑みにして、林は軍を率いて無断で満州に侵攻。越境将軍と呼ばれ満州事変を拡大しました。その後、1932年に陸軍大将に昇格し、教育総監、軍事参議官、齋藤・岡田両内閣で陸軍大臣を務めます。
林は根っからの軍人ですが、圧力に弱く、陸軍の思い通りに動かせる人物として石原莞爾の働きかけで、1937年2月2日に総理大臣に就任。林自身も「早く片付けて、あとは玄人(近衛文麿)に譲りたい」とこぼしていたようで、予算成立後、突然理由もなく衆議院を解散。わずか4か月で内閣を放り出し、「何もせんじゅうろう内閣」と呼ばれました。唯一あった出来事は、奇跡の人と称されたヘレン・ケラーが来日した際に、歓迎晩餐会を開いたくらいでした。
なお、首相在任123日はワースト5位の記録です。ちなみに、ワースト1位の短命内閣は終戦直後の戦争処理として皇族が内閣を組織した東久邇宮稔彦の54日。
長らく司法界で活躍し、政官界に隠然たる力を持っており、将来を有望視され、多くの歓迎を持って総理大臣に就任したのは、第35代(1939.1.5-1939.8.30)平沼騏一郎(ひらぬま・きいちろう)です。
平沼内閣の課題はドイツのヒトラーから提案された日独伊三国同盟の締結でしたが、反対派も多く数十回も五相会議が開かれましたが結論が出ませんでした。そんな時、1939年8月23日に独ソ不可侵条約が締結されます。日本がドイツとイタリアと手を組むのはソ連と戦うためであり、ドイツとソ連が手を組んでしまうことは、日本がソ連と戦う意味もなくなります。日独伊三国同盟は頓挫し、親独路線から英米協調路線へ転換せざるを得ない状況となってしまいました。5日後、平沼は「欧州情勢は複雑怪奇」と発して政権を投げ出し総辞職。本人もやる気で期待を背負いスタートした内閣は7か月で終わりました。
最後に、陸軍大臣を5期も務め、政治手腕と実行力は政界や民衆からも高く支持され、自身も総理の座を狙っていましたが、最後まで首相になれなかったのが宇垣一成(うがき・かずしげ)です。備前国(岡山県)出身。陸軍軍人として様々な要職を歴任。尉官時代は同期よりも出世が遅く「鈍垣」とあだ名されていました。
1924年清浦内閣で陸軍大臣に就任後は、5人の内閣で陸軍大臣を留任し、軍事予算の削減「宇垣軍縮」断行を実行するなど力を発揮。閥を憎む宇垣でしたが陸軍内での人気は高く宇垣閥が自身とは関係なくつくられていきました。1937年廣田内閣が総辞職をし、後継首相として宇垣に大命降下される運びとなりましたが、石原莞爾らの陸軍中堅層は軍部主導で政治を行うことを目論んでおり、軍部に対して強力な抑止力となる宇垣の組閣を阻止するべく、宇垣内閣の陸軍大臣のポストに誰も就かないように工作。宇垣は陸軍大臣への就任を陸軍内部で声がけするも全員が自粛し、最悪自分自身が陸軍大臣を兼務する形で組閣をしようとしましたが、1913年に自らが強硬反対し陸軍首脳部を突き上げた「陸海軍大臣現役制廃止」に反対したことが、自ら陸軍大臣を兼務できない状況となり、宇垣内閣を組閣できない原因となってしまいました。これにより組閣できず「流産内閣」となり、結果、全く首相にやる気がなかった林銑十郎が組閣することになります。
宇垣が首相であれば、その後太平洋戦争は起こらなかったであろう。もし起こったとしても切り上げ時を間違わなかっただろうと多くの関係者が後に回想しています。なお、戦後1953年衆議院選挙に立候補し、15万票得れば当選圏内であるところ、51万3765票のトップ当選を果たし国民の人気は不動でしたが、84歳の高齢から選挙中に倒れ、何もできず議員在職のまま87歳で亡くなりました。
林銑十郎 埋葬場所: 16区 1種 3側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/H/hayashi_se.html
平沼騏一郎 埋葬場所: 10区 1種 1側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/H/hiranuma_k.html
宇垣一成 埋葬場所: 6区 1種 12側
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/ugaki_k.html
※林銑十郎の墓所には「御沙汰」(ごさた)の墓誌碑が建ちます。昭和天皇が葬儀に御沙汰書(弔辞)と御下賜金を賜ったことを記念した碑で、多磨霊園に眠る人物では田中義一と岡田啓介も賜っています。
※平沼騏一郎の墓所内には騏一郎の墓石の左側に平沼恭四郎の墓石が建ちます。平沼騏一郎には実子がなく、兄の平沼淑郎(よしろう)の孫娘・中川節子と夫の恭四郎が一家養子となり、その長男が小泉内閣の経済産業大臣などを務めた平沼赳夫です。
【筆者プロフィール】
小村大樹(おむら・だいじゅ)
掃苔家・多磨霊園著名人研究家
1976年生まれ。1997年、大学生の時に多磨霊園の横にある石材屋でバイトをしたことをきっかけに多磨霊園に眠る著名人の散策を始める。1998年、当時インターネットが出始めた頃より「歴史が眠る多磨霊園」のホームページを制作。2018年開設20周年を迎える。
足で一基一基お墓を調査し、毎週1,2名ずつ更新をすることを20年間休まず実施(現在も継続中)。お墓をきっかけに眠っている著名人の生き様や時代背景の歴史を学ぶことをコンセプトにしており、掲載している人物は3000名を超える。
サイトを通じて多くの著名人のご遺族とも親交。歴史学者や郷土史家、出版社らの協力も惜しまず提供。一橋大学名誉教授の加藤哲郎『飽食した悪魔の戦後 731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』(花伝社)では論文として考察される。『有名人の墓巡礼』(扶桑社ムック)では一部執筆を担当。中学社会科・高校地理歴史の免許を取得し、通信制高校で教壇にも立つ。
『歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだけではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことだ』『私が著名人だと思った人物は全て著名人である』がモットー。